anti-daily-life-20181215
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But if you look closely into the perfect law that sets people free, (James 1-25)

 



 小林秀雄氏は、「疑惑 U」 の中で次の文を綴っています。

     広く考えて人間の精神は肉体という統制を離れて自由で
    あるか。抵抗が感じられない処に自由も亦ないのだ。そう
    いう自由に想いをひそめ、これを体得する道に、思想の自由
    の問題がはじめて起るのであって、其処以外には起り得ぬ。

 私は、35才頃から今 (65才) に至るまで 「比較的」 自由だったと思う──自由になりたいがために、すなわち自分の好きなことをやりたいがために、37才のときに独立開業したのだから、当初の思い通りに歩んで来ました。新しく事業を起こすために独立したのではないので、それを他の人たちには 当初 なかなか わかってもらえなかったのですが [「儲けるために独立したのではないのですか」 と たびたび 云われましたが ]、自由 (他人からの制約・束縛を免れること) を獲るために私は経済的裕福さを犠牲にしたのだから、私の 「下流老人」 ぶりを観て 近頃は わかってもらえるようにはなりました (笑、そして苦笑)。

 先ほど 「比較的」 自由だったと綴りましたが、「絶対的な」 自由などは存しないでしょう──「絶対的な (無条件な?)」 自由とは どういうことを云うのか、、、誰も きっと わかってはいないし、誰も実践している人はいないでしょう。小林秀雄氏が言っているように、我々は そもそも 肉体という制約束縛が課せられている。すなわち、当初から、自由を実現する主体 (自分自身) が制限されています。精神 (知・情・意) が肉体から遊離するのなら、精神の独自的な・絶対的な自由を唱えることもできるのでしょうが、私は そんな怪奇談など信じていない。物理的 (自然的) 条件や社会的条件のなかで我々は生活しているのだから、当然ながら、様々の制約束縛を免れる訳ではないでしょう。そうであるから、我々が 「自由」 を語るときには、それらの制約束縛の除去・軽減を指しているのではないか。だから、我々は、どのくらいに自由なのかを量るには、制約束縛の既存が不可欠であるという逆説めいた事実の話に落ち着くのではないか。

 日本語の 「自由」 と英語の freedom には、社会的前提が違っていることは 「反 コンピュータ 的断章」 において かつて 述べましたが、日本では 「『自由』 を獲得する」 という意識が薄いのではないかしら。「自由」 になることが制約束縛を除去・軽減することを目指しているのなら、当然ながら、そこには 「解放」 のための戦いが具体的行為として画策されるはずです。それとも、制約束縛からの 「解放」 という意識が薄いということは、「幸福な奴隷」 という弁証的概念が成立するのかしら、、、。

 
 (2018年12月15日)


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