anti-daily-life-20190101
  このウインドウを閉じる


A man who loves his wife loves himself. (Ephesians 5-28)

 



 小林秀雄氏は、「鏡花の死其後」 の中で次の文を綴っています。

     人生は理解出来る事柄と同様に理解出来ない事柄も必要
    とするだろう。率直に考えれば、それは殆ど自明の理である。
    お化けが恐いのはお化けが理解出来ないからであり、自然
    が美しいのも自然が理解出来ないからであろう。自然が日に
    新たにその不可解な全体を現す事は、風景画家がよく知って
    いる。友人が完全に理解出来たら友情もあるまい。それも、
    理解しても理解してもまだ理解出来ないところがある、という
    様な筋のものではあるまい。その様な事は友情に関する
    ほんの一要素だ。或は一要素にもならなかったりするものだ。
    友は、日に新たに理解出来なくとも、少しも差支えのない
    全体として現れる。愛情は、そういう全体しか見やしない。

 「友は、日に新たに理解出来なくとも、少しも差支えのない全体として現れる。愛情は、そういう全体しか見やしない」──相手の全体を身をもって感じて、そして あるがままに受け入れる、それが愛情ということでしょうね。相手が人間であれ自然であれ、そもそも 自分の外に在るものは何一つとして 「(完全に) 理解出来ない」 のではないか。

 「全体として現れる。愛情は、そういう全体しか見やしない」──こういう文は、精細な、そして繊細な省察を重ねてきた明晰な頭脳にしか綴ることのできない文でしょうね (小林秀雄氏の文才に私はただただ感嘆するのみです)。つらつら思えば、仕事が専門化されるにつれて、技術重視の テクノポリス 的社会のなかで、それに呼応するように我々の ペルソナ (個的人格) も矮小化 (機能化) されているのではないか、あるいは 個人の 「思想」 などは (日常生活の活動から浮いた) 灰汁 (あく) のように現代ではみなされているのではないか。「精神」 などという目に見えないものは、日々の仕事でも生活でも その真価を問われることはないし、そういうものを真面目腐って云々する人物は うっとうしい [ スマート じゃない ] と。

 科学は、我々の遺伝子・細胞・骨格・筋肉・神経などの構造 (しくみ) を説明してくれる。しかし、その構造全体が生み出す 「精神」 の様態 (状態・様相) を説明してはくれない。存在するが説明できない、あるいは説明できないが存在する 「精神」 の様態は、非科学的な恣意的な対象として疎んじられる傾向が現代では強くなっているのではないか、と私は感じています。しかし、「個性」 を顕しているのは、まさに この 「精神」 ではないか。そして、「個性」 すなわち 「精神」 は その全体として現れるしかない。

 全体しか感じることのできないが、全体としての 「精神」 の中身が一つ一つ定かではなくとも──喩えれば、グラデーション (濃淡、階調) のごとく中身の境界が はっきりしなくても──、或る時点での精神状態を他の時点での精神状態から区別するだけの認知力 (注意力) を発揮できるのは、相手に対する愛情 (あるいは、興味をもって注意を払うこと) をおいて他はないのではないか。こんなことは、我々の日常生活のなかで、特に親の子どもに対する愛情とか恋人同士の愛情のなかで、体験していることではないか。そして、相手の 「精神」 に対して注意を払わない人物のことを 「がさつ (rude、coarse) な ヤツ」 というふうに我々は非難するでしょう。

 
 (2019年 1月 1日)


  このウインドウを閉じる