anti-daily-life-20190201
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...but the worries and riches and pleasures of this life crowd in and choke them,...
(Luke 8-14)

 



 小林秀雄氏は、「人生の謎」 の中で次の文を綴っています。

     人生の謎は、齢をとればとる程深まるものだ、とは何ん
    と真実は思想であろうか。僕は、人生をあれこれと思案す
    るについて、人一倍の努力をして来たとは思っていないが、
    思案を中断した事もなかったと思っている。そして、今僕
    はどんな動かせぬ真実を掴んでいるだろうか。すると僕の
    心の奥の方で 「人生の謎は、齢をとればとる程深まる」 と
    ささやく者がいる。やがて、これは、例えば バッハ の或る
    パッセージ の様な、簡潔な目方のかかった感じの強い音
    になって鳴る。僕は ドキン とする。
     主題は既に現れた。僕はその展開部を持てばよい。それ
    は次の様に鳴る。「謎はいよいよ裸な生き生きとしたもの
    になって来る」。僕は、そうして来た。これからもそうして
    行くだろう。人生の謎は深まるばかりだ。併し謎は解けない
    ままにいよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来る
    ならば、僕に他の何が要ろう。要らないものは、だんだん
    はっきりして来る。

 小林秀雄氏の この文は、私には身につまされる──特に 「要らないものは、だんだん はっきりして来る」 という箇所、しかしながら それが カミサン と たまに軋轢を生じる (苦笑)。年金生活者になった私は、自分の やりたいこと (読書、思索) に集中したいので、日常生活の どうでもいいことは うっちゃっておく。私の そういう態度が日常生活のなかで カミサン と些細な食い違いを生み、カミサン から たまに小言をいわれる。ちなみに、結婚して 30年を超えますが、私のやることに対して、カミサン は文句を言ったことは ほとんどないです (それは感謝しています)。

 閑話休題。私は、「人生をあれこれと思案するについて、人一倍の努力をして来たとは思っていないが、思案を中断した事もなかったと思っている」。勿論、私は小林秀雄氏のような才ある文学者ではないので [ 私は システム・エンジニア です ]、小林秀雄氏ほどの深い思索をしてきたとは自惚れていないのですが、それでも自分の 仕事上 ずいぶんと読書・思索をしてきました。私の仕事は、モデル 論を前提にして、事業分析・データ 設計のための モデル 技術を作ることです。そのために、30才代の半ばから今 (65才) まで数学・哲学・文学・英語の書物を読んで一所懸命に考えてきました。

 私は システム・エンジニア と称しても、システム を実際に作るのではなくて、システム を作るための ツール (モデル 技術) を創るのが仕事です。どちらかと言えば、割のあわない [ 金銭の儲けがない ] ことを 30年間 続けています。ただ、この仕事が自分の性分にあっていると思っています──私は、人づきあいが嫌いで、独りで考えているほうを好み、日常生活のこと (住居、食事、ファッション など) には興味がない。そして、仕事と私生活が ほとんど重なって、それらの境界線が はっきりしない。

 しかも、数学・哲学・文学・英語の学習は、言語が (それが自然言語であれ形式言語であれ) 主題なので、自ずから 「思考すること」 そのものを考えることにもなります。そうすると、考えることを考えるという底なしの泥沼に足を入れることになってしまう。思索のどこかで危なっかしさを感じて、思索をやめればいいのですが、凝り性の私は停めることができない。先人たちの思想の大海を泳いでいると、まるで 夜中の大海に投げだされたような、どこに向かって泳いでいるのか 皆目わからない不安・恐怖が常に付き纏う。だが、知って停められるものでもない。私は哲学者・文学者・数学者ではないので、思索するといっても、私の思考の どこかに甘いところがあるのですが (something is lacking)、そういう世界 [ 夜中の大海 ] を専門家として游泳している人たちには尊敬の念を抱いています。

 「人生は謎」、そうなのでしょう──未来があるかぎり。そして、誰も自分の未来など正確に描けないし、現在において、未来への希望を頼りにして可能性を ひとつずつ判断して選択していくしかないのではないか。そして、そうやって選択してきたことの積み重ねが人生であって、自らの人生を振り返ってみれば、偶然や矛盾に満ちていることがわかる (他人の人生は私にはわからないけれど、少なくとも私の人生は偶然・矛盾だらけだった)。過去と断絶しないかぎりは、未来の選択肢も過去の延長線上 限られてくるでしょう。そして、齢も重ねてきて、智慧がついてきたいっぽうで、体力的にも精神的にも衰退してくる。体力・知力が次第に喪われつつあることを意識すれば、自ずから 「要らないものは、だんだん はっきりして来る」。「老いて益々盛ん」 とは、私には冗談としか思われない。余所見 (よそみ) しないこと、私は 65才の今、それを実感しています。

 
 (2019年 2月 1日)


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