anti-daily-life-20190215
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Even Satan can disguise himself to look like an angel of light! (2 Corinthians 11-14)

 



 小林秀雄氏は、「読書の工夫」 の中で次の文を綴っています。

     小説を創るのは小説の作者ばかりではない。読者も又
    小説を読む事で、自分の力で作家の創る処に協力するの
    である。この協力感の自覚こそ読書のほんとうの楽しみで
    あり、こういう楽しみを得ようと努めて読書の工夫は為す
    べきだと思う。いろいろな思想を本で学ぶという事も、同じ
    事で、自分の身に照らして書いてある思想を理解しようと
    努めるべきで、書いてある思想によって自分を失う事が、
    思想を学ぶ事ではない。恋愛小説により、自分を失い他人
    の恋愛を装う術 (すべ) を覚える様に、他人の思想を装う
    術を覚えては駄目だと思う。

 小林秀雄氏の言うような読みかたをできるようになるには、或る程度 読書体験を積んでいなければならないでしょうね──「自分の身に照らして書いてある思想を理解」 できるようになるのは 30才くらいになってからであって (つまり、社会に出て、或る程度 社会体験を積んでからであって)、高校生・大学生の頃には難しいでしょう。若い頃には、社会体験が ほとんど学校という場所に限られていて、書物を読んでも、書物と対比できる自分の体験・思想が少なくて、いきおい 「書いてある思想によって自分を失う事」 が多くなってしまうでしょう。そして、書物から学んだ思想を (意識的であれ無意識的であれ) 装う、天才の著した書物を多数読んで社会・人生を わかった気になる──「文学青年」 と揶揄される人の特徴でしょうね。私も 御多分に洩れず そうでした。

 他人 (天才) の思想を装って、社会・人生を見透かした気になって社会・人生を斜に構えて観て [ 正面から対応せず、皮肉な態度をとって]、「正論」(書物から学んだ観念的な分かり切った正論) が社会のなかで行われないことに怒りを感じる。そうして、正しいことを言っている自分は他人からわかってもらえないと思い込んで一匹狼を気取りつつ他人を見下し、そのいっぽうで衆愚と侮っている他人たちの団欒な生活を観て妬み寂しさを感じる──「文学青年」 にありがちな性質です。私も若い頃には そういう性質を たっぷりと帯びていました。しかし、青年は書物から社会・人生を学ぶしかない。

 読書において大切なことは、小林秀雄氏の言うように、他人から学んだ思想を自分の人生のなかで験証することでしょう (社会・人生を肉眼で観ること)──それが身証ということでしょう。人生を難なく歩くための 「法則」 などはない、めいめい が工夫をしている (と思います)。若い人たちも、いずれは [ 社会に出れば ] 自らの思想を試される時が来ます。しかし、他人 (天才たち) の思想を装って、社会を衆愚の集まりとして端 (はな) から見下していたら、自らが抱いている思想 (借り物の思想?) の験証ができないでしょう。

 読書の目的は、ベーコン 氏 (哲学者、政治家) の次の ことば に集約されるのではないか (「随筆集」)──

    反対したり論難したりするために読書するな。といって、
    信じたり、そのまま受入れたり、話や議論の種にするため
    読書するな。ただ思い、考えるために読書せよ。

 
 (2019年 2月15日)


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