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So then, where does that leave the wise? (1 Corinthians 1-20) |
誤解されない人間など、毒にも薬にもならない。そう
なんらかの問題を提起した論説は、かならず賛否が起こる──賛否を引き起こさない (あるいは、批評の対象にならない) 論など、そもそも相手にされていないのでしょう。かつて読んだ書物のなかで次の文が引用されていました──
To avoid criticism, do nothing, say nothing,
Be nothing──これが 「毒にも薬にもならない」 ということではないか。
コミュニケーション において、「(意味が) 伝わる」 ということは奇蹟にひとしい。我々は、自分のことをわかって欲しいと願って情報を発信する [ あるいは、行動を起こす ] が、受け手のほうは送り手と同じ 「生活様式」 という文脈を共有していなければ、送り手の情報 [ あるいは、行動 ] の意味を正確に把握できるはずもない。そして、受け手のほうでは、自身の 「生活様式」 のなかで送り手の情報・行動を判断するしかない。
さらに、送り手のほうでは、自身の意図と それを表現する手腕との ズレ という問題に悩まされる──言いたいことが巧く言えない、と。手腕が意図を実現できない状態に苦しまない人などいないでしょう。こういう障碍 (生活様式、意図と手腕) をはらんだまま、我々は コミュニケーション をしているので、意味が伝わるというのはそもそも奇蹟に近い。
「相手の身になって考えなさい」 と云われるが、そうそう簡単なことじゃない。我々は相手のことを どれほど知っている (あるいは、知ることができる) のか──完全にわかりあうというのは不可能でしょう。完全な情報交換というのは、「記号」 と 「意味」 が一意であるという前提で立てられた図式でしか実現できないでしょう。だから、自然言語の コミュニケーション では、我々は、相手の言動を全体として大まかに捉えるしかない。
「説示一物即不中」(説いて示しても言い当てることはできない) というのが我々の コミュニケーション の実態ではないか──その対偶をとれば、「命中してはいないが、完全に外れている訳でもない」 という意味でしょうね 。
しかも、我々は一つの信念を 一生 持ち続けて生活している訳ではない、我々は生活の偶然的事象の中で判断し (認識の不完全性を免れない)、その判断も矛盾することが往々にして起こる。それが実生活 [ 生活様式 ] の実態でしょう。それが我々の置かれた条件 [ 前提、制限 ] でしょう。その条件に立っての コミュニケーション が不完全であるのは是非に及ばず。そういう不完全な条件のうえで、かつて だれも語ってこなかった事あるいは語りえ難い事を なんとか表現しようとしているのが思想家・芸術家でしょうね。夏目漱石氏は次のように胸中を吐露しています──
私は始めて文学とは何んなものか、その概念を根本的
思想家・芸術家ではなくても、我々凡人でも自らの生活を作ろうとしている人は、そういう自覚を持っているのではないかしら。そして、その自覚から発信された言動は コミュニケーション の不可避的な不完全性のゆえに必ず幾分か誤解を生む。誤解を避けたければ、何も言わず、何も為さず──しかし、「誤解されない人間など、毒にも薬にもならない。そういう人は、何か人間の条件に於いて、欠けているものがある人だ」。そういう人は社会のなかで──社会のなかで生活していれば、かならず何らかの コミュニケーション をするはずなのですが──他人との交流を閉ざした人なのでしょうね。
年老いるとは、人間の条件を次第に喪うことなのかもしれない。それは悲しいことでしょうが、我々は年老いたときに直面しなければならない現実です──私は 65才です、そろそろ老いの準備をしなければならないでしょうね。壮年のときに抱いていた情熱は衰えて、燃え滓がくずぶっているけれど、私を もう暖めはしない。そして、人間の条件の一つを喪いはじめている──もはや年下の人たちから批判されることがなくなってきた。私は自分が喪った情熱を若い人たちの眼の中に窺い うらやむしかない。
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