anti-daily-life-20190401
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God can take these rocks and made descendants for Abraham! (Matthew 3-9)

 



 小林秀雄氏は、「アラン 『大戦の思い出』」 の中で次の文を綴っています。

     経験によって強く頭に閃 (ひらめ) く考えというものを、
    展開させ育て上げようとする人は実に少いものだ。経験
    が、その都度教える考えの閃きは、その時その時の感想
    となって消費されて了う。宝石が磨かれないで捨てられ
    て行く様なものだ。こういう無数の人々によって捨てられ
    た無数の原石を掻き集めたら、どんなに光り輝く思想の
    殿堂も、光を失うであろう。

 生活のなかで、ふと着想が浮かんで、それを書きとどめようとしても手許に鉛筆と メモ 用紙がないので とりあえず覚えておいて、後 (あと) から思い出そうとしても忘れてしまっていたという経験を私は幾度もくり返しています。そういう経験を何度かして後悔しているので、身近に メモ 帳を鉛筆を置いているのですが、それでも同じ ヘマ をくり返してきました。それなら レコーダ を ポケット に入れて持ち歩いて、着想が浮かんだら、直ぐに録音すればいいと思って、レコーダ を買ったのですが、数回 使っただけでした──録音を後 (あと) で聞き返して メモ をとる労が疎ましかった。スマホ の録音機能を使っても同じことになった。私は メモ をとるのが どうも下手なようです (苦笑)。

 小林秀雄氏は、閃く考えを 「宝石が磨かれないで捨てられて行く様なもの」 だと綴っていますが、私のことを言えば、着想の メモ をとっても (あるいは、録音しても)、後で読み返してみれば、着想は 悲しいかな がらくた ばかりで メモ をとる労が報われた例 (ためし) がなかった。

 私は TM (モデル 技術) を作る際に、確かに いくつかの着想を得て それらを確実な技術にしてきました。着想は、机に向かっているときに浮かぶことは稀 (まれ) であって、電車のなかで ぼんやりしているときとか、歩いているときとか、食事 (晩酌)しているとか、友人と会話しているときとか、就寝した直後とかに急に浮かんでくる。しかし、それらの着想は メモ をとっていたのではなくて、着想が浮かんだあとでも それらを考え続けて、着想が頭のなかに メモ されて次第に具体的に詳細に形作られてきたというのが事実です。

 天才たちが着想を得た例として、アルキメデス は風呂のなかで、アインシュタイン は エレベータ のなかで着想が浮かんだということが引用されますが、たぶん、彼らは着想が浮かんだ直後に メモ をとってはいなかったのではないかしら──ただし、その後も、着想を考え続けていたのではないかしら。私のような程度の凡人が自分の体験の延長線上で天才たちのことを類推するのは高慢の誹りを受けるでしょうが、着想が浮かんでも その後も継続して頭に残らないような繊弱な着想は強い思想には育たないのではないか。

 閃き (着想) が、「宝石」 となるうるには、小林秀雄氏の言うように それを考え続けるという しつこさ が不可欠でしょう。「その時その時の感想となって消費されて了う。宝石が磨かれないで捨てられて行く様な」 原石 (着想) は、思想とは成り得ない。しかし、小林秀雄氏の言う 「無数の人々によって捨てられた無数の原石を掻き集めたら、どんなに光り輝く思想の殿堂も、光を失うであろう」 という意見に対して私は逆 [ 反対 ] の意見をもっていて、喩えれば 1カラット の ダイヤモンド を 10個集めても、10 カラット の ダイヤモンド 一つが持つ重厚な質量感と整々たる光沢には及ばないでしょう──天才の思想は依然として 「宝石」 としての輝きを失わない。

 
 (2019年 4月 1日)


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