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anti-daily-life-20190601
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I have worked with these hands of mine to provide everything (Acts 20-34)

 



 小林秀雄氏は、「処世家の理論」 の中で次の文を綴っています。

     処世術を無視した机上の理論が、入れ代わり立ち替わり、
    ジャアナリズム の上で、流行っては廃る光景を送迎する
    ほど精神の疲れることはあるまい。正しいが故に美しい
    学問のなかとか、美しいが故に正しい芸術のなかとか、
    或は日に新たな処世術のなかにさえいれば、精神はどん
    なに烈しく動いても疲れる様な気遣いはない。併し、流行
    品なみに、飾り窓に格好なだけの理論を纏った言説の
    需 (もと) めに応じていては、精神は磨り切れて了うより
    他はあるまい。

 小林秀雄氏の文 「正しいが故に美しい学問のなかとか、美しいが故に正しい芸術」 は見事ですね、こういう文を綴ることのできる文才に対して私は羨望と嫉妬を覚えます。私は学者でもないし芸術家でもないけれど、それなりに学問・芸術を嗜んできたつもりなので、小林秀雄氏の言っていることは わかる [ 実感できる ]。確かに、学問・芸術の学習に専念しているときには疲れを感じないし精神も擦り切れることもない。本物の研究家・芸術家なら、仕事に一心に打ち込めば、精神は崖っぷちまで行って、擦り切れるのかもしれないのですが、私のような程度の凡才は天才が食べ遺した パン の屑を拾って食べて、天才が味わったであろう芳味を感じとるだけです。パン 屑でも食せば滋養になる。

 偽物は飾り立て媚びをうる──偽物は、先人たちが苦労して物した思想を 脚色の多い話に書き替えて まるで我が説のように作り立てる。それをできるのは まだ才のあるほうでしょう、おおかたは見え透いた意匠を凝らした凡作です──そういう論文・作品を読み終えて残るのは 唯々 落胆だけです。貧乏な老齢の私には、金銭を払って書物を買って多くの時間を費やして読んだ果てが徒労に帰するのは辛い。だから、私は、風雪に堪え高評価を得てきた古典しか読まなくなった。私が寿命を終えるまでに なんとか習得味読したい書物が三冊ある、それらは 今まで いくども読んできた書物だけれど腹に入っていない [ 字面だけを読んでいるにすぎない ]──それらの三冊は、「哲学探究」 (ウィトゲンシュタイン)、「不完全性定理」 (ゲーデル) と 「正法眼蔵」 (道元禅師)。

 流行に追従した言説を こしらえるのは、自らの本心と乖離していればいるほど、精神が擦り切れることは想像に難くない。こういう仕事は 精神衛生上 宜しくないので、私は なるべく引きうけないようにしているのですが、日銭 (生活費) を稼ぐためには請け負わなければならない──大学などの研究機関に属さないで私は フリーランス として 30年弱ほど モデル 技術を探究し続けてきて、探究したいことだけを探究するという生活を続けるために日銭を稼がなければならず、疾 (と) うに学習し終えたこと [ 私にとっては終わったこと ] を セミナー 講師として繰り返し幾度も話さなければならない──見飽きた風景を案内説明し続ける退屈さに堪えなければならない。そういうときには私は精神が擦り切れて虚しさに襲われ不眠に陥る、、、。

 
 (2019年 6月 1日)


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