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the old is gone, the new has come. (2 Corinthians 5-17) |
古典とは、僕等にとって嘗 (かつ) てあった作品では
小林秀雄氏の この意見に私は反対しないけれど、この文に述べられていることが古典の 「永続性」 あるいは 「本質・真理 (?)」 だと考えれば見事に 「文学青年」 の陥りやすい罠に落ちるでしょう。
源氏物語は 1008年頃には すでに その一部が流布していて、1000年以上も読まれ続けて現代に至って、現代に生きる私も源氏物語を読んだときに その面白さに惹きつけられました。源氏物語のなかで綴られている礼式・典故・官職・法令、衣裳や生活慣習は現代のそれらとは とても違っている、したがって 「古典は嘗てあったがままの姿で生き長らえるのではない」のは確かです。小林秀雄氏は、古典を 「僕等に或る規範的な性質を提供している現に眼の前にある作品である」 として、「日に新たな完璧性を現ずるのである」 と論じています。では、この 「完璧性」 とは何か。それは、数学で云う 「位相」 に近いのではないか。
ひとつの作品は、それが閉じられた構造 [ 文 (文字列)] をもっている──その構造そのものが自給自足状態にある。したがって、外的環境が変わっても、その構造が伝える (顕す) メッセージ は変わらない。変わってゆくのは社会です、そして 1000年の後に その メッセージ を読んだ私が感じ入るということは、1000年後の社会でも通じる メッセージ であるということでしょう。その メッセージ を 「本質・真理」 と呼ぶのは あざとい──何についての 「本質・真理」 なのか、、、人間性について? 馬鹿を言っちゃいけない、人間性は その置かれた環境の作用によって いかようにでも変わる。したがって、「汲み尽す事の出来ぬ泉」 とは、人間性の特性についての結論 (本質?) ではなくて、「何について、どのように考えた (書いた) のか」 という方法 [ 見かた、考えかた ] が文体 (音調、あるいは主調低音) に載って伝えられることをいうのではないか──物語としての源氏物語しかり、随想として徒然草・枕草子しかり。それが時空を超越して共感をもたらす、「規範的な性質」 ということは そういうことではないか。だから、現代の社会のなかでも、古典は立っていることができる。このことは、西洋の作品にも (たとえば、「戦争と平和」 「罪と罰」 「カラマーゾフの兄弟」 など、たとえ それらが翻訳であっても主調低音というような響きにも)、たぶん 当てはまるでしょう。このことに関して、私は ギットン 氏 (哲学者) の次の ことば を思い起こしました──
思考には骨組みとなるような体系が必要であるが、しかし
方法から体系へ、道程から真理への微妙な変貌は、きわめて |
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