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anti-daily-life-20190815
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A tree is known by the kind of fruit it bears. (Matthew 12-33)

 



 小林秀雄氏は、「維新史」 の中で次の文を綴っています。

     歴史は精 (くわ) しいものほどよい。瑣事 (さじ) と
    いうものが持っている力が解らないと歴史というもの
    の本当の魅力は解らない様だ。

 小林秀雄氏の言に私は賛同します、と同時に このことは 「歴史」 に限ったことではないでしょう、ほとんどの事柄に当てはまることではないか。

 我々は 「事実」 から受ける印象を基 (もと) にして 「事実」 を 「解釈」 して推論するが、「事実」 の種々様々な瑣事を切り落とせば それに反比例して憶測が増える──当然ながら、それぞれの人は めいめいの印象を持っており、したがって それぞれの人の推論・憶測も みんな ちがう。一次資料 (原資料、史料) と云われるものですら そうなのであるから、それを まとめた大略 [ 要約、大意 ] になれば言わずもがなでしょう。

 我々は うっかりすると 瑣事を切り捨てた大略を 「法則」 みたいに語る愚に陥る、森鴎外 曰く 「要するに三面記事は どこまでも個人の猿知恵を出すことを避けて、あくまで典型的に書かなくてはならない。女は皆 『美人』 である。恋愛は皆 『痴情』 である。何事につけても公憤を発して けしからんよばわりをしなくはならない。クリスト は裁判をするなと言ったが、三面記事は何から何まで裁判をしなくてはならない。どんな遺伝を受けて、どんな境界に身を置いた個人をつかまえて来ても、それを指を屈するほどの数の型にはめて裁判をする。そこが春秋の春秋たるゆえんかもしれない」。

 高次に (抽象的に) まとめられた言説など たいがいの大人 (社会経験を積んできた人) なら誰でも語ることができる──「事実」 を観なくても それはできる。書物だけで学んだ人の言うことが干からびているのは それがためです。我々は仕事に於いて具象 (事実) を丁寧に観て対応するということを体験するが、為すべき仕事を持たない人の言うことが虚しく響くのは、具象を見据えて推論を導きだすという手続きが欠落していて、その辺に落ちている尺度 (法則) を拾って請け売りで述べているからでしょう。

 歴史書や古典文学を読むときに私は有職故実 (や時代考証) を重視します [ 森鴎外も そうだったそうです ]──当時の生活の具象を離れて歴史が観念的にならないようにするためです。高校生の頃、国語の副読本には有職故実が記述されていましたが、私は 当時 そんなものは瑣事にすぎないと思い込んで、歴史上の人物の為した [ 成した ] ことにしか興味がなかった (おそらく、多くの高校生は そうだったのではないか)。しかし、大人になって歴史を再学習した時には有職故実を重視するようになった──それは私が日本通史に較べて民俗学のほうに惹かれる理由の一つかもしれない。

 Internet が普及した現代では、江戸後期や それ以後の時代の映像 (写真・動画) が ネット 上に数多く アップロード されていて、それらの映像を丁寧に観れば当時の生活が事細かに具体的に (生々しく) わかる。そして、今の私は歴史上の大業を成した人物に対する興味を喪って江戸時代・昭和時代の庶民の生活に興味を抱 (いだ) いています。めいめいの人たちに それぞれの歴史がある、その時代の環境・状況のなかで人々は思い考え工夫して生活している。ひとつの時代の傾向・特徴というような時代風景は存するでしょうが、その時代を一つの観念では まとめきれるものではない。そして、諸事実を一連の因果関係で通観して まとめたものが歴史ではないでしょう。

 私は歴史学者ではないので 「歴史」 についての専門的意見を述べることはできないし、生半可に述べるつもりもない。「歴史」 を好きな私は歴史学者たちの仕事に対して、勿論、敬意を払っています (例えば、児玉幸多、大久保利謙、芳賀幸四郎、遠山茂樹、坂本太郎、和歌森太郎、笠原一男、井上光貞の諸氏の仕事には私は敬意を払っています)。「事実」 を集めたものが 「歴史」 にはならないことも承知しています。いっぽうで、一人の庶民として、私は私の実生活を離れて 「歴史」 を観ることができない。有島武郎氏曰く──

    私はそのものの隅か、中央かに落とされた点に過ぎない。
   広さと幅と高さとを点は持たぬと幾何学は私に教える。
   私の永劫に対して私自身を点に等しいと思う。永劫の前
   に立つ私は何ものでもないだろう。それでも点が存在する
   如く私も亦永劫の中に存在する。

 「歴史」(正史?)のなかで語られることのない点 (個々人) にも生々しい生活の瑣事は 種々様々 存している、そして それらの瑣事に対応して工夫しながら我々は生きている。その面白さがわからなければ、歴史の魅力を感じることができないし、「歴史」 は重立った事件の単なる編年体の暗記物に成り下がるでしょうね。

 
 (2019年 8月15日)


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