anti-daily-life-20190901
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their thought have become complete nonsense, and their empty minds are filled with darkness.
(Romans 1-21)

 



 小林秀雄氏は、「維新史」 の中で次の文を綴っています。

     思想の敵が反対の思想にあると考えるのは、お目出たい
    限りである。思想が闘い鍛えられるのは、現実そのもの
    の矛盾によってである。言いかえれば、思想の真の敵は
    己れ自身にあるのである。どの様な思想も安全ではない。

 この文を読んだときに私の頭に浮かんだ人物は ウィトゲンシュタイン 氏 (哲学者) でした──彼の哲学 (思想) は、前期 (「論理哲学論考」 に記述された考えかた) と後期 (「哲学探究」 に記された考えかた) では様変わりしています。それらのあいだには、彼の生前に公の出版物としての形ではないですが──ちなみに、「哲学探究」 も生前に出版されてはいない──、「論理哲学論考」 からの思想の変移が見て取れる足跡 (そくせき) として 「講義録」 「哲学文法」 「青色本」 「茶色本」 などが遺っています。彼が現実的事態・言語 (自然言語、形式言語)・論理・意味・生活形式・心理などについて どのように考えてきたかを追跡するには、彼の 「全集」 を読むのがいい──「思想が闘い鍛えられるのは、現実そのものの矛盾によってである。言いかえれば、思想の真の敵は己れ自身にあるのである。どの様な思想も安全ではない」 ということを痛切に感じ取ることができるでしょう。

 「現実」 (現実的事態) は矛盾しない、それは あるがまま です。矛盾するのは、「現実」 を観て誘発される我々の 「解釈 (あるいは、反応・対応)」 (すなわち、我々の思考 [ 論理 ]・感情) でしょう。同じ対象を見た二人は、人体としての眼球の構造が同じなら、網膜に映る像も同じはずですが、二人の脳が描く印象は違う──視覚から脳に至るあいだに、あまりにも多様な濾過作用 (それぞれの人が置かれている生活形式や人生経験、今まで習得蓄積してきた知識や そのときの気分などの作用) が働いて、観たことに対して 「解釈」 が介入する。仏教では、その様態を 「一水四見」 と云っています。マシーン (機械) ならば こういうことは起こらないのですが [ プログラミング 通りにしか動作しないのですが ]、「生身の」 我々は無常 [ 変化 ] を免れない。しかも、マシーン は己を疑うことはしない。

 「現実」 と接触しなくても 「思想」 をもつことはできるでしょう──そういう人たちを私は数人観てきました。勿論、そういうふうに形成された 「思想」 は、たいがい演繹的・観念的に導かれて (「現実」 に対して適用されないので)「闘い鍛えられる」 ことはない──それを 「思想の敵が反対の思想にあると考えるのは、お目出たい限りである」 というふうに小林秀雄氏は皮肉を言っているのでしょう。我々は、そういう思想を 「(机上の) 空論」 として蔑むでしょう。しかし、そういう 「思想」 は、検証可能性を欠落しているけれど、体系的に まとまっていて (その体系のなかでは) 論理的矛盾が生じない──すなわち、事実的な真を欠落しているが、(論理的に) 導出的な真を実現している。

 「思想」 そのものに絶対的価値があるのではない、「(思想の) 解釈」 から独立して 「思想」 が存在する訳ではない。言い替えれば、「思想」 は 「枠組み (範囲を限られた事態 [ 関係 ])」 の総体を前提にした全体論 (文脈) 的な 「解釈」 の内部 (from within) からしか意味を現すことができないということ。単純に言えば、「現実 (事実)」 を離れて [ すなわち、「解釈」 を離れて ]、「事実」 の外側に形而上学的実在として 「(絶対的な) 真」 は存しないということです。したがって、「思想の真の敵は己れ自身にあるのである。どの様な思想も安全ではない」。「事実 (事物・事態)」 を離れて 「思想」 は存しない。

 
 (2019年 9月 1日)


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