× 閉じる |
You must be as cautious as snakes and as gentle as doves. (Matthew 10-16) |
現代の知識人には、簡単明瞭な物の道理を侮る風があるが、
天才な哲学者の思想や逸才な科学者の理論・技術は、その後 多数の人たちに継承されて次第に分割細分 (専門化) されて深化して複雑になっていきます。喩えれば、花の種子が風に運ばれて、辺りに次々と花が増えてゆく現象でしょう。思想・理論・技術の深化を花の増殖に喩えましたが、それらの哲学者・科学者の説を学ぶためには、原典から現代に至るまでに出版された関連書 (類書、解説書など) を すべて 読んで、誰が どこまで研究しているのかを調べなければならないのですが、とても骨が折れる。そういう役務に多大な労力を費やしていれば、うっかりすると、独自の考えを出す前に いわゆる 「文献学者」 のままで終わってしまう危険性がある。しかし、自説を公表するのなら、それらの下調べは避けて通れない労力です。ただ、往々にして、亜流というのは、「複雑精緻な理論の厳めしさなぞ見掛け倒し」 であることが多い。幹 (原典) から派生した枝が幹を超えて大きくなることは自然の摂理として絶対に無い。幹よりも大きくなるには、元の幹の花粉が他の地に飛んで根を下ろすしかないでしょう。
血脈という ことば があるけれど、血脈が続くには 「不易流行」 ということが遵守されていなければならないのですが、後続する人たちは たいがい 抹消にとらわれ根本の不易を見失い、遂には閉塞してしまうことが多い。根本の不易を見失う理由は、抹消にとらわれた論が精緻にはなるが その精緻さが一歩行きすぎる (あるいは、蛇足 [ しかも原典を深読みして拵えた虚構 ] である) のではないか──「屋上に屋を架ける」 という体に陥るのでしょう。正当な・正統な継承は、源泉の思想が伝える不易を見失わない。しかし、深読みしすぎるとか蛇足であるとかという判断ができるには、勿論、原典を虚心に丁寧に読み、原典から派生した説を実際に読んでみなければならない。亜流は (原典を超えようとして独自色を打ち出そうとする欲目・焦燥に駆られて) 改悪が多い──この下調べが そうとうに疲れる、多大な時間・労力を費やして読んだ挙げ句が食わせ物だとわかったときの疲労感は そうとうに大きい。
私は、モデル TM の技術を理論的に検証していたときに、この疲れを いくども 体験しました。起床したあとに シャワー を浴びて髭を剃るために鏡のなかの自分の顔を観たとき、顔には (書物を読みすぎた) 疲労感が漂っていた。モデル TM が基礎にしている理論は、ツェルメロ・フレンケル の セット 理論および ゲーデル の完全性定理・不完全定理ならびに ウィトゲンシュタイン の 「哲学探究」 です。これらの理論は、私が 40歳になってから学習しました、文系の学生だった [ 高校 3年生以後、正規の数学を学習してこなかった ] 「文学青年」 が学習するには当然ながら難しかった。先ず記号論理学・数学基礎論の入門書を数多く読んで、形式論理の基礎技術を習得してから彼らの説の解説書を数多く読みました──それらの解説書は すべて 役に立った。しかし、今になって振り返ってみれば、それらの解説書のなかで彼らの説を的確に説明している書物は少ない──ゲーデル の定理に関して言えば、田中一之氏と本橋信義氏が とても役だった。数学は (数学的) 技術そのもの の説明なので、具体的な演算から逸れることはないのですが、哲学については 厄介なことに解説者の 「視点」 が混入してきて どの解説も成り立つように思われる。解説している人の説は、自分の実感を述べていれば、それはそれで否定できない [ 他人の実感を否定することなどはできない ] のだから、「そう言うこともできる (そういう解釈もできる)」 と認めるしかない [ 賛同はできないとしても ]。まさに 「十人十色」 状態です。そういう状態について、ウィトゲンシュタイン の次の ことば は、「複雑精緻な理論の厳めしさなぞ見掛け倒し」 であることを指摘しているのでしょう──
はじまりをみいだすことは むずかしい。
彼の言う 「はじまり」 とは 「事実 (現実的事態)」 から離れないことを言っているのではないか──「深読み」 するな、顕れていること以上のことを憶測で語るな、と。あるいは、個々の事態に対して 「法則」 を安直に適用するな、「考えるな、観よ」 と。この ことば は、学習を広く深く積んで 「深読み」 あるいは逆に安直な法則適用を数多く体験してきて疲れた人が実感を正直に述べたのでしょうね。
|
× 閉じる |