× 閉じる |
Lord, I am ready to got to prison with you and to die with you! (Luke 22-33) |
覚悟というものは、文学者の覚悟に限らず、増やそうとして
「肉体と精神」 について、一元論や二元論などいう哲学的論争には私は 皆目 興味がなくて、私自身は 「身心一如」 というふうに単純に考えています──身体の構造が生み出す精神は、身体を離れて顕れることはないというくらいにしか考えていない。「精神」 というもの の中身が、知・情・意というふうに 便宜上 分けて考えてみれば、精神 (すなわち、身体) が他の対象に及ぼす作用を説明しやすいというだけの話ではないか。そして、精神 (「意志」) の顕れのなかの ひとつが 「覚悟」 というふうに記述されている (名指しされている) のでしょう。
「覚悟」 とは、「苦労は覚悟のうえだ」 とか 「もう これまでだと覚悟する」 という言いかたのように、危険なこと・不利益なこと・困難なことなどを予想して受けとめることを云うのだけれど、その語義が表すように危険・不利益・困難と自分自身の対応力 (能力) を天秤に掛けている──小林秀雄氏は 「(覚悟は) 増やそうとして増えるものでもないし、精しくしようとして精しくなるものでもない」 と言っていますが、我々は ことば のうえで 「覚悟」 の度合いを計量 (空想?) しているのではないか [ 覚悟が強い[ 堅い ] とか、弱いとか ]。こういう言語上の空想した計量が時に無駄な精神論を産むのではないか──「君は覚悟が足らない、死に物狂いでやれば できる」 と。
「私は為す覚悟がある」 と言ったところで、その覚悟が本物かどうかは、実際に行動するかどうかで判断されるでしょう。「実行するか、しないか」 という二者択一こそが、身体が他に及ぼす作用の すべて でしょうね。ことば は いくらでも 取り繕うことができる──意図・計画・報告・反省、さらには それらに対する虚偽 (虚構・隠蔽・改竄) あるいは様々な概念の意匠は言語上の所作にすぎない。小林秀雄氏は 「いくら文明が進んでも、依然として原始人が棲んでいる」 とか 「知識で空想化した頭脳」と言っているので──原始人が 「本能」 のみで行動していたのかどうかは私には わからないけれど──、「覚悟」 を理屈抜きの直截的な (行動に直結する 「本能」 に近い) 意思と見做しているのでしょうね。だから、行動することなしに欲望する人は腐敗する──単純な話ではないか。
|
× 閉じる |