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"If you are God's Son, order these stones into turn into bread." (Matthew 4-3) |
ミケランジェロ は、大理石の塊りに向かって、鑿を振う、
小林秀雄氏の述べていることは、芸術の仕事に限らず、およそ創造的・探究的な仕事においてみられる性質でしょう。私も (事業分析・データ 設計のための) モデル 技術 TM を探究していて、小林秀雄氏が述べていることを感じています。数学的に言えば、自分が習得している知識・技術が (たとえば、それらの個々の知識・技術を a, b,・・・, m として) 範囲を限定した なんらかの思想 f のもとに体系化できる特性関数 f (a, b,・・・, m) が成立していて、さらに それを拡張するときに外点 n を取り込んで、f (a, b,・・・, m ∨ n) を考えたとき、その特性関数が崩れなければ n は体系のなかで成立し、崩れれば n は体系のなかで ふさわしくない、ということでしょう──その n が、実際の仕事では、新たな疑問の延長線で捉えられる探究対象であり、既存の体系のなかに 「芋ずる式」 に取り込んでいく新たな知識・技術でしょうね。
私は こういう数学的な説明を エッセー のなかで使うのは、昔 (50歳以前) には毛嫌いしていたのですが、今では私の仕事のなかで数学的概念・数学的技術を使うので、どうしても自分の仕事のなかで習得した具体的な技術を通して語るしかないのです──小林秀雄氏の文を読んだときに、私の頭のなかで真っ先に浮かんだのは数学の特性関数でした。私は数学者ではないのですが、数学でも おそらく 小林秀雄氏が述べたことは実情なのでしょう。ただし、数学の場合には、命題 [ 判断の叙述文 ] を論理法則にしたがって演算できるということに限られます (たとえば、私の場合では モデル 技術のような数学的構造に限られます)。
厳正な論理式の公理系でも、小林秀雄氏の ことば を借用して言えば、「出来上がった公理系は彼に様々な事を教える、彼の心に様々な新しい疑問を起させる、彼は解らぬままに、又、論理規則を提げて新しい命題の塊りに向う」。数学者は考える時間が多いように我々門外漢は考えがちですが、或る数学者が言うには彼らが仕事する時間の八割くらいが記号演算に費やされているそうです──その様 (さま) は、喩えれば、ミケランジェロ が大理石の塊りに向かって鑿を振るっているのと同じでしょう。数学が いかに高度に抽象化された論理式で表現されようが、数学的な考えかたは帰納法を根底にしているのではないか。
小林秀雄氏が述べた 「芸術家の仕事というものの実情」 を一度でも実感した人は、おそらく 「探究する」 その精神を捨てることはできないでしょう──いったん この状態を実感すれば、二度と素 (もと) の状態になる事はないと思う。こればかりは自ら実感するしかないし、「手の中の菓 (このみ) を人に与ふる如くに非ず」(「色道小鏡」)。
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