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Treat them with the greatest respect and love because of the work they do. (1 Thessalonians 5-13) |
心を開いて歴史に接するならば、尊敬するより他に、
「心を開いて歴史に接するならば、尊敬するより他に、僕等には大した事は出来ぬ」 という文のなかで 「僕等」 というのは、「今日の歴史家」 以外の人たち (「今日の歴史家」 の集合の対する補集合) ですね。「歴史」 というのは、史料・遺跡などをもとにして、今日の社会に至る来歴すなわち過去に起こった事態の聯関 (変遷・興亡) のありさまを記録した 「社会科学」(?) です──自然科学は 「反復性・再現可能性をもつ性質」 の現象について 「法則 (原因-結果の因果律)」 を立証しますが、歴史学は史料・遺跡などの事実を基礎資料にして 「一回的・個性的な性質の それぞれの事態」 について 「理由-結果」 を記述する学問です。「歴史」 が学問として成立するには、社会の構造・変遷について一つの体系的な見かた (数学の公理系、自然科学の法則に該 (あた) る) を方法論として具えていなければならず、その見かたが 「史観」 と云われているもので、唯物論的なものと観念論的なものがあるようです。「史観」 については、「反文芸的断章」(2020年 1月 1日付) で述べましたので ここでは割愛します。私は、歴史の専門家ではないので、歴史学の やりかた・ありかた について (シロート が なまじ知ったふうに) 述べることはしたくないのですが、我々 シロート が歴史に対して抱いている感覚・意見は私が上述したような見かたではないか?
歴史家でない人は一次史料・遺跡などを直接に調べられないので、時代考証にもとづいて歴史を観るということは先ず難しい。我々 シロート が歴史を観るとき、時代考証を考えないとすれば、いきおい精神史的な見かた (歴史的事実の裡には歴史を動かす力として精神的な力が働いているという見かた) になるのは やむを得ないのではないか──我々の日常生活のなかで実感としてもっている 「意識」 を歴史上の人物に対して投射するという やりかた しかない。こういう歴史の見かたを私は悪いと言っているのではなくて、史料として遺っている記録は出来事 (事件など) を記録した際に出来事を直接に観たことのない人たちが伝聞をもとにして憶測しながら文を綴っていたでしょう。亀井勝一郎氏は、「歴史と人間」 に関して、以下の アフォリズム を遺しています (「思想の花びら」)。
正確で詳細な資料に出会ったことで安心してはならない。
現代でも 事実と それを報道する マスコミ の記事を対比してみれば、「正確で詳細な資料」 足りうることが いかに難しいかを我々は わかるでしょう──事実を観たとしても、その目が怪しい (記者の 「解釈」 が入り込んでいるし、ましてや伝聞をもとに文を綴るとなれば言わずもがなでしょう)。史料については、本 ホームページ の 「読書案内」 を ご覧ください。芥川龍之介氏は 「人生」 について次の アフォリズム を遺しています (「侏儒の言葉」)──
人生は一箱の マッチ に似ている。
この アフォリズム の述べているいることは、今風な単純な言いかたをすれば、「たかが マッチ 箱、されど マッチ 箱」 ということでしょうね。歴史的資料 (史料) についても同じことが言えるでしょう──信用するには不充分だが (complete・whole ではないが)、一応の それらしきことは書いてあるので無視はできない、と。
歴史家は 「歴史」 を事態 (それぞれの出来事について理由-結果の機能的聯関) として観るし、我々 シロート は事態を為した人物の行為が累積されたものとして観ている。そういう見かたの違いは当然であって、社会と個人との関係において、歴史家は社会構造を機能的に分析するし [ 社会は一つの関数 (関係) であって、個々人は その関数のなかの変数として考え、「機能」 を以て 「存在」 することを考えるし ]、我々は日常生活を通して個人が社会に働きかけるというふうに考える。その考えかたの違いが、小林秀雄氏の冒頭の引用文に現れているのでしょう。ちなみに、私は歴史学を 「科学」 だとは思っていない、だから 私の歴史観は小林秀雄氏・亀井勝一郎氏・芥川龍之介氏の観点と似ている。
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