anti-daily-life-20200301
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as he wishes, he gives a different gift to each person. (1 Corinthians 12-11)

 



 小林秀雄氏は、「匹夫不可奪志」 の中で次の文を綴っています。

     経験というものは、己れの為にする事ではない。相手
    と何ものかを分つ事である。相手が人間であっても事物
    あってもよい。相手と何ものかを分って幸福になって
    も不幸になってもよい、いずれにせよ、そういう退引
    (のっぴ)きならぬ次第となって、はじめて人間は経験
    というものをする。

 私は 「(事業分析・データ 設計のための) モデル 技術」 を仕事にしている システム・エンジニア なので、物事を観るときに、どうしても 「関係の論理」 を前提することが癖になっています──「関係の論理」 とは、aRb というふうに記述して、その読みかたは 「個体 a は、個体 b に対して関係 R にある」 です。それゆえ、数学者は、aRb のことを R (a, b) = f (x, y) というふうに二項関係として捉えます (厳正にいえば、数学上、関係 R [ Relation の略 ] と関数 f [ function の略 ] は違うのですが、証明式のなかで使う場合を除けば、関係 R と 関数 f は ほぼ同じと見做してよいでしょう)。

 R (a, b) において、a と b との作用・反作用に因って生じる事態 R が なんらかの 「意味」 をもつには、a と b が 「退っ引きならぬ次第となって」 はじめて成立します。我々は生活しているかぎり必ず対象をもつ なんらかの活動をしており (すなわち、二項関係ということ)、その活動は数え切れない──たとえば、朝には床 (とこ) から出る、顔・歯をみがく、食事をする等々。これらの活動は、小林秀雄氏の ことば を借りれば、「経験」 ではない──なぜなら、「経験というものは、己れの為にする事ではない。相手と何ものかを分つ事である」。では、母が朝食を作ってくれた、会社の同僚と仕事の会話をした、誰それに商品を セールス した、誰それに恋をした、誰それと結婚した、というような行為は、「経験」 と名付けることはできるでしょうが、或る人にとっては 「経験」 と成り得ても、他の人には 「経験」 には成り得ないかもしれない。そういう行為が 「経験」 となるのは、相手と自分との関係について 「強烈な印象を生じた」 ときでしょう。それを小林秀雄氏は 「退引きならぬ次第」 と言っているのでしょうね。

 「強烈な印象が生じた」 ときの関係において、たぶん、そのときの印象とは 「自分の愚かさ、悲しみ、嬉しさ、怒り」 などの感情に与える名前でしょう。そういう感情が起こるというのは、自分の為したことについて なんらかの 「意味」 を認めている。そして、自らが今まで会得してきた知識 (Frame of Reference) に対して、その 「意味」 は経験を通して初めてとらえられることができるのですが、その 「意味」 を他人に伝えることは難しい。多くの人たちが文章を綴るという経験をしてきて、「文章を綴るのは難しい」 と嘆くのは ドストエフスキー も言うし会社員でも言う。伝えることが難しいと嘆く感情 (すなわち、その原因となった 「意味」) は、明確に計量できないけれど、人それぞれにおいて濃淡があるのは誰でも認めることでしょう。この感情を伝えるとき、相手が そういう経験をしたことがない人であれば、伝えることは もとより難しいけれど、同じような経験をしてきた人であっても、やはり難しい。

 我々は 「経験」 を通して実感したことを拠 (よ) り所して自らの思想 (世界観) を形成しています。「経験」 は あくまで主観であって、誰も他人の主観を否定することはできない。ホフマンスタール 氏は、「経験」 について、次の名言を遺しています (「友の書」)──

    「経験」 については二種類の不愉快なひとびとがある。
    経験のないひとびとと、経験をあまりに自慢するひとびと。

 自らの経験の 「意味」 を思量するのはいいが、その 「意味」 は己れの生活の文脈のなかでこそ成立するのであって、我々は同じようなことを経験しても人それぞれに その持つ 「意味」 は違う。「経験をあまりに自慢するひとびと」 というのは、自らの生活を尊重していても他人のそれを軽んじているのでしょうね。そういう人のことを独善的な人とか独りよがりの人と云うのではないか。社会のなかで生活しているかぎり相手と何ものかを分かちながら、それぞれの人は めいめいの体験を積んで おのおのの 「ドラマ」 をもっている、という 至極 単純な摂理を、それが単純であるがゆえに、往々にして見落とす──特に、自分が活力に溢れている時には、自分が他人に影響を与えていると思い込んで自惚れて、自分が或る関係のなかでは その関係を構成している一変数にすぎないということを忘れてしまう。自分が社会に働きかける主体であるというふうに自分を中心に置くのは止むを得ないけれど、自らの過去を振り返ったときに、自らが関与した事態 [ 相手との関係 ] が自ずと人生を構成している主題として浮かびあがるのではないか──それぞれの事態の連鎖 (運動) のなかで それらの事態の関係を観る、それが客観ということではないか。そのときに初めて、自分を関係のなかで捉えることができるでしょう。そういうことができるようになって初めて、そのときの 「経験」 を 「退引きならぬ次第」 として知ることができるのではないか。

 
 (2020年 3月 1日)


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