anti-daily-life-20200515
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Put yourselves to the test and judge yourselves,
to find out whether you are living in faith.
(2 Corinthians 13-5)

 



 小林秀雄氏は、「カラマアゾフの兄弟」 の中で次の文を綴っています。

     自己反省の上手な人は、本当に自己を知る事が稀れなもの
    だし、巧みに告白する人から本音が聞ける事も稀れである。
    反省は自己と信ずる姿を限りなく拵え上げ勝ちであるし、そう
    いう姿を、或る事情なり条件なりに応じて都合よくあんばい
    する事は、どうしようもなく人を自己告白という空疎な自慰に
    誘う。

 告白について、宗教 (キリスト 教) 上で為されるものは私には実感としてわからないので、意見を控えます──アウグスチヌス、モンテーニュ、ルソーの告白録を私は読んできたのですが [ そして、それらは私の好きな書物なのですが ]、私には 「神」 というものがわからないので、それらの書物を私は読み込めていないと思っています。それでも、彼らの soul-searching の真摯な覚悟に私は惹かれています。日本の文学史上 (および、「哲学」 をふくめて)、大正時代までの著作で西洋の告白録に肩を並べる作品はあるかしら──私は文学の シロート ですが文学史の文献を読んでいて、そういう著作を見つけることができなかった。だから、有島武郎氏の 「惜しみなく愛は奪う」 を私が (高校生のときに) 初めて読んだとき、それまで読んできた文学作品 (小説・評論) にはない告白の生々しさ──小説家としては けっして洗練された文体ではないけれど [ バタ 臭い文体だけれど ]、それゆえに まるで 生の感情を投げつけたような瑞々しさ──を覚えました。そこに綴られている文は、書物として出版するかぎりでは当然に技巧が施されていて、「生の」 告白ではないことぐらいは私にも わかりますが、「或る事情なり条件なりに応じて都合よくあんばい」 した自己告白ではないと私は断言できます──その後の有島武郎氏の事跡をみれば それがわかるでしょう。

 ドストエフスキー 氏は次の文を綴っています──

    人生においてなによりもむずかしいことは──
    嘘をつかずに生きることである・・・そして
    自分自身の嘘を信じないことである。

 告白においても、われわれは この難儀を逃れにくいでしょう。他人に見せるはずのない日記のなかでさえも、他人に読まれることを意識して、文を拵えているのではないか。そもそも、われわれの日常生活において、告白をするということが どれほどあるのか──恋愛の告白は ここでは除きます、恋愛の告白は相手に自分を受け入れてもらえるように明らかに拵えているのだから。それを除けば、告白ごとは先ずないでしょう──もし あるとすれば、そして その中身を他人が知ったならば、じぶんの今までの人生 [ 生活 ]・じぶんの性質が信頼してきた人たちをうらぎるような重大な隠し事でしょうね。そういう深刻な隠秘は、誰にも言わずに棺桶の中まで持って行けばいい。じぶんの心の中に ずっと閉まい続けていたら、ストレス が溜まって精神が変になりそうで、誰かに言わずには堪えられないというのなら、鏡に向かって じぶん自身に告白すればいい、鬱積を外 (そと) に出せばいい。

 みずからの意識が見物客になって、みずからの意識の演戯を観て批評することが いかに難しいか。しょせん 告白は一人芝居といえば、そうなのかもしれない。そのときに、みずからに偽りなく告白できるか。みずからを悲劇の主人公にしていないか、告白している じぶん自身に酔っていないか。みずからの意識の作為を見逃してはいないか。「自己告白という空疎な自慰」 に陥ってはいないか。われわれは公にみずからを少なからず晒しているのだけれど、どこまでを晒すかは自分なりの見当 [ 目安 ] を意識的にしろ無意識的にしろ立てているでしょう。そして、われわれは他人の告白を或る程度まで傾聴できるが、しかし その他人事を じぶんが丸々抱え込んで共有する [ 己れの実感とする ] のは嫌なのではないか。告白は、じぶん自身に向かって [ じぶん自身を相手に ] するしかないのではないか。それが soul-searching ということではないか。そして、「自分自身の嘘を信じないことである」。

 じぶんの精神を じぶんが客観視できるには そうとうな言語技術がもとめられる──ドストエフスキー 氏のような天才にして はじめて できることでしょうね。われわれ凡人の告白は、じぶん自身に どこかで媚びている、われわれの告白など此 (こん) な所が此 (こん) なものでしょう。

 
 (2020年 5月15日)


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