anti-daily-life-20200815
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I wrote you with a greatly troubled and distressed heart and with many tears;
(2 Corinthians 2-4)

 



 小林秀雄氏は、「西行」 の中で次の文を綴っています。

     如何にして歌を作ろうかという悩みに身も細る想いをして
    いた平安末期の歌壇に、如何にして己れを知ろうかという
    殆ど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである。
    彼の悩みは専門歌道の上にあったのではない。陰謀、戦乱、
    火災、飢饉、悪疫、地震、洪水、の間にいかに処すべきか
    を想った正直な一人の人間の荒々しい悩みであった。彼の
    天賦の歌才が練ったものは、新しい粗金(あらがね)で
    あった。

 西行法師のように歴史に名を刻んだ天才に限らず、われわれ凡人の仕事に於いても、西行法師の悩みに近いものを感じることが起こるのではないか。私のことをいえば、40歳のときに まさに それが存 (あ) った。今振り返れば、それがその後の私の人生を決めた──今 (67歳) に至るまでの仕事の起点になった。私は、37歳のとき (1991年 1月) に独立開業しました。その独立開業は、事業を興すためにやった訳ではないことを かつて 本 ホームページ で綴っていますが、私自身は独立開業するつもりなど 毛頭 なかった。当時、私は RDB を日本へ導入普及する仕事に就いていて 「超 売れっ子」 だったので、(しかも、当時は旧・商法では法人設立には最低資本金 1千万円の制約があって個人が なかなか独立しにくい事業環境でした)、独立開業という危険を わざわざ犯す理由などなかった──最終的に独立を決心したのは、或る ユーザ 企業と (当時の) 私の秘書 [ 独立開業の共同設立者 ] が強く勧めたからです。しかし、独立後の 3年間、私は なにも目新しいことに取り組んだ訳でもなくて、独立以前の仕事と同じことを継続していました。ただ、この 3年間、私は、データ 分析・設計の技術について大きな疑念を抱いていました。

 私は、いわゆる 「文学青年」 であって、プログラマ として一時は働いていましたが プログラマ としての私の技術など お粗末だったし、SE として データ 設計の技術を (E.F. コッド 氏の セット・アット・ア・タイム 法を ウケウリ して) 使ってはいましたが、コンピュータ 技術については シロート 同然でした。その シロート の目から見て、当時、業務分析の 「技術」(?) として DFD だの ER 法だのという ポンチ 絵が推奨されていたのは唖然としました──こんなものが技術なのか、と。

 E.F. コッド 氏は、数学者であって、セット (集合) 理論を使って データ 設計技術を作りました──その後、今に至るまでの 50年のあいだ、その技術を超える データ 設計技術は出ていない。「設計を科学にした」 というのが、コッド 氏に対する後世の評価です。コッド 正規形は、mathematical モデルなので、「写像」(現実的事態と データ・モデルとの写像) という点を もっと強調すれば、事業分析 モデル にも成り得た技術です──ただ、コッド 氏は、現実的事態は すべて記号化されているという前提から技術を作りました。そして、「文学青年」 が その点に こだわった。いかにして コッド 正規形を事業分析にまで拡張 (適用) するかという殆ど SE が考えない悩みを提げて、私は独立開業後の テーマ にしたのです。そんな仕事が世間で ウケ る訳がないことぐらい重々承知のうえで私は航海に出たのです。そして、今も航海を続けています。コンピュータ 技術の シロート たる 「文学青年」 が 「常識」 を以て観たのは歪 (いびつ) な世界 (システム 作りの いわゆる 「分析 フェーズ」) でした、データベース・パラダイム にいた数学者 コッド 氏が そんな領域に手を出さなかったのは私にはわかる気がする、そして その領域が モデル 化できることを私に教えてくれたのは、ウィトゲンシュタイン 氏 (哲学者) と オブジェクト 指向分析の理念 [ 経済的実態を そのまま 写像する ] でした。

 
 (2020年 8月15日)


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