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They will no be judged, but have already passed from death to life. (John 5-24) |
実朝の横死は、歴史という巨人の見事な創作になった
この文は、文学を素養とした小林秀雄氏の見事な文ですね。一読して文の意味を掴めても、こういう文を綴ることは私のような程度の凡人にはできない。文体の話となれば、西洋の文学を鑑賞することが私にはできないので──英文学であれば英語をそうとうな高い水準で習得していなければできない [ native speaker であっても言語能力が そうとうに高い人たちでなければできない ] ので西洋文学を考慮外として、日本文学に限って言えば、作家の作品を読んで意味 (文の意味) を掴むことができれば自分にも そういう文を綴ることができるというような錯覚に陥りやすいけれど、作家の文体というのは簡単に真似できるような代物じゃない。しかも、小林秀雄氏の この文は視点も独自です。それでも、この程度のことは自分にも書くことができると自惚れているのなら、試しに (この文の意味を掴んだのであれば、小林秀雄氏の文を見ないで) 同じ意味の文を自分で書いてみればいい──否応でも、作家の文体のすごさを思い知るでしょう。
「ここで、僕等は、因果の世界から意味の世界に飛び移る。詩人が生きていたのも、今も尚生きているのも、そういう世界の中である」──この文は、科学と文芸のちがいを見事に撃ち抜いていますね。「因果の世界」 とは科学のことでしょう──ここでは歴史(歴史学) のことを云っているので、私としては 「因果 (原因-結果)」 というよりも 「理由-結果」 という用語を使いたいのですが、そうすれば その直後にくる 「意味の世界」 との対比が曖昧になるので [ 「理由-結果」 を探るためには、それらの事象の 「意味」 を探ることになるので ]、「因果の世界」 という言いかたのほうが結局はいいですね。ちなみに、「因果」関係は、或る原因から必ず或る結果が導かれることを云い その原因を否認することはできないけれど、「理由-結果」 では その理由を否認して他の理由を認めることができる。
「事実」 の羅列は歴史(歴史学)にはならない──歴史(歴史学) では、或る限られた範囲 (時間軸) において、数々の社会的事象を 「理由-結果」 の前後運動として考えるので、それぞれの事象のあいだの 「関係」 を重視して、その 「関係」 のなかで個々の事象に座標を与えるという考えかた [ 関係主義 ] に立っているでしょう。事象間の 「関係」 を どう観るか [ どう 「解釈」 するか ]、というのが歴史観と云われているのでしょう──科学としての歴史(歴史学)は、事象のあいだの 「関係」 を探究する。いっぽう、文芸は、事象間の 「関係」 よりも、それらの事象を興した主体 (行為した人たちの精神 [ 知・情・意 ] ) を核にして事象を記述するのが目的です──行為者 (個人) の精神を探求する。理想的には、事象間の 「関係」 が個人の精神 (動機) の発露どおりで起こることなのですが、「(事象間の) 関係」 にも 「(個人の) 精神」 にも つねに 「解釈」 が生じる──どれほど多量な史料が遺されていても、そして それらの すべて が正確な史料であったとしても、依然、「(事象間の) 関係」 も 「(個人の) 精神」 も当事者たちのほかは知る由 (よし) もない。
文芸では、小説と詩とは どこが違うのか。私は文学者ではないので、もとより こういう質問にこたえることはできないけれど、文学者でさえ おそらく [ 否、きっと ] 誰一人 はっきりと こたえられないだろうと思います。それでも、詩とよばれるものがあって、小説と よばれるものがある。そうであれば、詩ではなくては伝えることができないもの、小説でなくては伝えることができないものがあるはずでしょう。そして、それらを生む土壌になるのが詩的精神 (詩魂) であり散文的精神でしょう。詩人とよばれている人たちは、きっと こういう問題には興味などないでしょうね、そして彼らは彼ら独自の文体に載せて詩の創作を実行するのみでしょう。小林秀雄氏は、詩人について次の文を綴っています (「物質への情熱」)──
詩人は美しいものを歌う気楽な人種ではない。在るものは
事実 (事象) を観て 「意味の世界」 に飛び移った詩人が伝える現実は、そういうものなのでしょうね。そして、その仮構の中に描き出した 「意味」 が いっそう生々しく現実を再現するのではないか。
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