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How wonderful is the coming of messengers who bring good news! (Roman 10-15) |
優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現
「美」 について私が常に思い起こす ことば は ドストエフスキー の次の ことば です──
美──それはじつに恐ろしいものだ。それが恐ろしいのは
物事を抽象化・汎化することに慣れてしまうと、「美」 という モノ が存在しているような錯覚に陥るけれど、それは あくまで高階の観念 (形而上概念) であって、この世には 「美しいもの」 はあるが 「美」 というものは実存しない。そのことを端的に述べているのが小林秀雄氏の次の ことば です──
美しい花がある。「花」 の美しさという様なものはない。
「美」 というものは事物に即したもの、物そのものです。だから、その物に 「美」 を感じるかどうかは、人それぞれだし、それぞれの人が感じている 「美」 も それぞれです──「美」 を説明して語り尽くすことは ついにできない。そういう曖昧な感覚を我々は会話になかで やり取りしている。ただ、「美」 について確実に言えることは、それを他人から強いられて感じるものではない、「美」 を感じることは物事について あくまで自発的な作用 (感覚) であるということでしょうね。そして、「美」 は、我々が生活していくゆえで、無用のもの [ 必ずしも必要条件ではないもの ] でしょうね。しかし、いったん 美しいものに掴まれてしまうと、二度と元の状態に戻ることはできないという特質 (魔力) もあるようです。それに抗おうとしても、「美」 を確乎に定義できないのだから、美しいものに掴まれてしまうと翻弄されるしかない──それが芸術家と呼ばれている人たちの実態ではないか。
芸術の法則を記述することは、科学 (あるいは、論理) の法則を記述することよりも遥かに難しい。その理由は、芸術は多数の人々を感動させるけれど、それはつねに芸術家個人の心 [ 魂 ] から出ていて、必ずしも法則 [ 芸術の法則 (もし そういうものがあるとして) ] に従わなければ感じられない [ 共有できない ] というものではない。いっぽう、論理法則は、いかなる天才であっても、それを破ることができない──ウィトゲンシュタイン や ゲーデル の使う論理定項 (AND、OR、NOT など) は、私のような程度の凡人の使う論理定項と同じです、なぜなら それが論理の約束 (約言) だから。しかし、芸術には このような従わなければならない約束は (短歌・俳句のような文字制限の他は) ないのではないか。しかも、短歌・俳句では、文字が制限されていても、作家個人の刹那の抒情を打ち込む。作家個人の精神を離れて芸術は存しない、いっぽう個人の感情を抜き去って論理を使うのが科学でしょう。「芸術と科学」 について、私は かつて なんかの書物で読んだけれど、その書物を思い出せない、、、ただ そこに書かれていた次の ことば を鮮明に記憶しています──「芸術は私である。科学は われわれ である」 と。
芸術家は、たぶん、自らが感じた 「美」 (言うにいわれぬ或るもの) を 「語ろうとする衝動を抑え難く、而も、口を開けば嘘になるという意識」 を強く抱いて作品を作るのでしょうね。「説似一物即不中」(説いて示しても言い当てることはできない) というのが彼らが抱いている苦悩ではないか──いつまでたっても、「美」 に辿り着くことができない (説明し尽くすことができない)。「美」 を体現している実在物は この世の物であって、或る人々は その実在物を美しいと感じるが──その実在物に対して、美しさを感じない人々も 当然 多く存する──その美しさを言い尽くすことができなくて、それを言おうとしても それを完全に記述できなくて苦しむ。それを言ったところで、実在物を目の当たりにして的を外してしまう。そうであれば、「美」 というものは、「普通一般に考えられているよりも実は遥かに美しくもなく愉快でもないものである」。「美」 は おっかないもんだよ。
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