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Take my yoke and put it on you, and learn from me,... (Matthew 11-29) |
模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。
模倣は独創の起点であるということは、今どきの高校生の 「文学青年」 でも綴ることができるでしょう、言うだけなら小林秀雄氏の言を俟 (ま) つまでもない。小林氏のすごい点は、彼の出現以前の批評活動に対して、批評行為の明晰な意識化ということを モチーフ にして、西洋の [ フランス の ] 近代精神に ウラ 打ちされた新鮮な視点と文体とで評論を一つの文学領域 [ 批評文学 ] として世間の人々に認識させた点でしょう。小林秀雄氏の文を読めば、なるほど小林秀雄氏の文体だと一読してわかる。彼の初期の作品は、フランス 人の著作──ヴァレリー 氏、アラン 氏などの著作──の影響を立派にうけている。後期になると、彼の興味は日本の古典に向けられたけれど、文体は大きくは変わっていない。そして、それは以後、「モオツァルト」 「ゴッホ の手紙」 など音楽・美術 (および古美術品) を対象にした いわゆる 「審美的」 傾向を強くしていくけれど、文体は変わっていない。当時、日本にどれほどの文芸批評家が存したのか私にはわからないけれど、それらの文芸批評家たちのなかで小林秀雄氏は彼独自の視点・文体で燦然とかがやく巨星であることは確かでしょう。
私淑 (ししゅく) とは 「直接に教えを受けてはいないが、その人を慕い、その言動を模範として学ぶこと」 (「広辞苑」) ですが──直接教えを受けている人に対しては 「親炙 (しんしゃ)」 という──、同時代に生きている師には直接に師事することができるけれど、古人を模倣するのであれば私淑しかない。小林秀雄氏も ヴァレリー 氏や アラン 氏に私淑したのでしょう。私淑は、師と仰ぐ人に対する信頼がなければできないでしょう。個性あるいは独創というのは、個性的あるいは独創的になろうとする意欲から生まれるものではない、そういうことは古来言われてきたことで改めて述べることではないけれど、私のような程度の凡人が そういうことを言っても鼻で笑われるだけでしょうから、天才の言を一つ引いておきます──「格に入り格を出でて、はじめて自在を得べし」 (松尾芭蕉、「三冊子」)。
私のことを言えば、凡人は凡人なりに一つの矜持をもっています──その矜持とは、20年以上にわたって モデル 技術 TM を作ってきたことです。私の壮年期は ほとんど TM を作ることに費やされた。もし TM を作っていなかったら、私は社会になじめない・破滅を好む 「文学青年」 のまま今に至っていたでしょうね──「文学青年」 というのは、文学愛好家ではあるけれど、真面 (まとも) な作品を何一つ作ることができないまま、いっぱし批評家を気どっている未熟柿 (なまじゅくし) の状態なので、鼻持ちならない。TM が生まれる切っ掛けとなったのが、コッド 関係 モデル です。私は、30歳代前半の頃、リレーショナル・データベース および コッド 正規形を日本に導入普及した エンジニア の一人です。コッド 関係 モデル には、私は 「私淑」 するというよりも苦しめられた──苦しめられたという意味は、私は リレーショナル・データベース と コッド 関係 モデル を日本に導入普及した先駆者として当時 「超売れっ子」 になってはいましたが、いっぽうで私がやっていることは コッド 関係 モデル を 「猿まね」 して稼いでいるにすぎないという後ろめたさに苦しめられていたのです。
他人に比べて、少しばかり早く リレーショナル・データベース や コッド 関係 モデル を知っていたにすぎないので、その程度の知識であれば、他の人たちも いずれ当たり前の技術として習得します。その状態は、登山に喩えれば、他人よりも少し先に登って、下を見下ろしながら優越感に浸るというような ばか気た状態なので、その状態をよしとしない私は 40歳頃のときに 「独自の」 モデル 技術を作ろうという これまた ばか気た野心を抱いて、T字形 ER法 (TM の前身) を作り始めたのです──ばか気た野心と綴ったように、後々振り返ってみれば、TM は コッド 関係 モデル を前提にした モデル にすぎないことが わかった。T字形 ER法そして TM を作るのに費やした年月が 20年以上であるということは、「模倣は独創の母である」 ということを私が実感するのにも同じ年月を要したということです。この単純な箴言を実感するのには、それほどの年月を費やすことになったのです。そして、私は、今、一切の誇張を入れないで、「模倣は独創の母である」 ということを確かに言うことができる。
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