anti-daily-life-20210615
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Put yourselves to the test and judge yourselves, to find out whether you are living in faith.
(2 Corinthians 13-5)

 



 小林秀雄氏は、「『罪と罰』 についてU」 の中で次の文を綴っています。

     生きて行く理由は見附からぬが、何故死なないでいるのか
    解らない、そういう時に、生きる悲しみが ラスコオリニコフ の
    胸を締めつけるのである。

 ラスコオリニコフ が生きていた時代と私が生きている時代では、社会制度がちがうので、彼の魂が感じていた 「生きる悲しみ」 というのは 私が (若い頃に) 感じた悲しみと同じような悲しみなのかどうかというのは私にはわからない。もし同じであると推測して、私の感じた 「生きる悲しみ」 を以てして彼の それだと言えば的を外すことになるでしょうね。古今東西の文学作品を読んできて私が思うのは、感受性の強い青年は疾風怒濤 (シュトゥルム・ウント・ドラング) の渦中にいて悩んできたという性質が共通して観られる──疾風怒濤 (シュトゥルム・ウント・ドラング) というのは、若い ゲーテ らが興した ドイツ の文学革新運動のことを云うのがふつうなのですが、その運動の特徴として、悟性偏重の啓蒙主義を非難して、社会の旧態依然とした制度・慣習に対して主観的・感情的に抗した点が強いので、青年に特有な感情的あるいは浪漫的な性質という意味として私は使っています、ロマン 主義と云ってもいいかもしれない。青年時代というのは、私のことを振り返っても、古典主義・合理主義へ反撥して理想主義 (空想的で叙情的な性質) の傾向が強い──それが悪いというふうに私は言っているのではなくて、寧ろ青年期には正義感に溢れて社会に対して怒りを感じないほうが不健康だと思っています (社会・家庭に対して従順な青年のことを非難して いわゆる 「優等生」 と我々は云っているではないか)。

 疾風怒濤の渦中にいる青年は、きっと 言い知れぬ 「生きる悲しみ」 を感じている──その感情を 「文学青年」 特有の 「こじらせ系の」 軟弱さ、すなわち 性質や意志が弱くて世事に耐え得ないと速断して嘲笑うことはたやすい、しかし 「文学青年」 の目から観れば、そういうふうに非難する人たちこそが (「哀 (あわ) れ」 つまり感情の機微を知らぬ) がさつ な連中として映る。健康な体育会系の人は 「文学青年」 に対して次のように言うかもしれない──「気が滅入るなら、散歩などのように身体を動かしなさい。それでもだめなら、もう一度、運動しなさい」。この助言は、なんらかの切っ掛けの結果として生じた憂鬱さであれば確かに ききめ があるけれど、生きることというそのものに内在する (原因となっている) 悲しみには特効がない──なぜなら、身体を動かして一時的に悲しみが消え去っても (糊塗しても)、生きることそのものに内在するのだから運動を止めたとたんに再び現れる。私は 「文学青年」 を擁護しているのではない、この悲しみは、医学・生理学では、たぶん、青年期特有の ホルモン・バランス の乱れから生じる現象として説明できるのかもしれない。ただ、青年のすべてがそうなる訳ではなくて、「生きる悲しみ」 を感じる青年もいれば、そうでない青年もいるというのが私には不思議なのです。「文学青年」 だった私は青年期に そういう言い知れぬ悲しみを感じてきて、学生生活を終えて就職したときに社会のなかで対応できないで仕事・人間関係が嫌で嫌で転職と無職をくり返していました、「自分は社会不適合者だ」 と思っていました (否、今でも、「自分は社会不適合者だ」 という思いは強い)。

 社会不適合者だという自覚を持った・協調性のない・自意識の強い 「文学青年」 が巡りあわせの縁のなかで 30歳代になってはじめて仕事に全力を注ぐことができた (その縁と仕事については、かつての 「反 文芸的断章」 のなかで綴ってきたので、ここでは割愛します)。私は 37歳で独立して、以後 68歳にならんとする今まで一つの仕事 (モデル 技術を作ること) を 30年続けてきました。そのあいだには、文学作品よりも数学・哲学の書物を多量に読んできました──青年期に感じていた悲しみは 40歳代の頃には まだ尾を引いていましたが 50歳代には ほとんど消え去った、そしてその代わりに新たな苦悩が現れた、数学・哲学の天才たちの書物を読んでいて自分がいかに凡才であるのかを思い知らされたし、彼らの思想に必死に喰らえ着いているのですが彼らは天才たちであって凡人の私ごときが直ぐに彼らの思想を咀嚼できる訳もなく、喩えれば真夜中の大海のなかに放り出されて泳ぎ向かうべき陸地の方角もわからずに溺れないように バタバタ と足掻いているというような絶望感をいくども強烈に覚えています。

 「生きて行く理由」 などは、棺桶に入るまでわからないのではないか。偶然に誕生した我々に論理的関係として定立できる理由 (「充足理由の原理」) など存するはずもない──存在に対する理由 (寧ろ、原因) は授精という結果を導くことで明らかですが、「私」 という存在が 「生きて行く理由」 は 誕生したとき 延長ある時空の中での点にすぎない、そして我々自身にも そのときの記憶がない。私が 「生きて行く理由」 は、私自身の意志に依る。私は、私の思うように生きることができる。我々は、生きて行きながら次第に誕生したときの点を面積を有する大きさにしていくのでしょう。そして、私が死んだときにはじめて、その面積の境界線が定まって、その終止符が私の人生を遡及して意味を付与するでしょう。文章の結末として ピリオド を打つのと同じではないか、ピリオド が打たれていない文は未決なのであって その 「意味」 を判断することはできないでしょう。

 ちなみに、ラスコオリニコフ の選民意識に近い サイコパス 状態を私は若い頃から共感を 一切 覚えなかった (ただし、ドストエフスキー を私は ひたすら賛嘆するしかない)。ドストエフスキー の作品のなかでは、「貧しき人々」 のほうが私は好きです。

 若い頃に感じていた 「言い知れぬ悲しみ」 を今では ほとんど 感じなくなった。そのいっぽうで、涙腺が緩 (ゆる) んできた──世間で昔から云われてきたように 「年老いたら涙もろくなる」 という現象が私にも生じている、YouTube 動画で悲しい場面や感動する場面を観たら、直ぐに涙が流れる、こういうことは青年期には起こらなかった現象です。涙腺が緩む現象は、年老いると脳の或る領域が萎縮して生じるらしいのですが、年老いて自分でも びっくりするほどに涙腺が緩んできました。そして、この現象は、感受性が豊かであるがゆえで そうなるのではないということを実感して私は愕然としています。それを実感して、感受性が豊かでなくても涙もろくなるのであれば、青年期に感じていた 「言い知れぬ悲しみ」 というのも根拠が ずいぶんと曖昧になる、、、。

 
 (2021年 6月15日)


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