anti-daily-life-20210815
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And the quality of each person's work will be seen when the Day of Crist exposes it.
(1 Corinthians 3-13)

 



 小林秀雄氏は、「私の人生観」 の中で次の文を綴っています。

     私は、書くのが職業だから、この職業に、自分の喜びも悲しみ
    も託して、この職業に深入りしております。深入りしてみると、
    仕事の中に、自 (おのずか) ら一種職業の秘密とでも言うべき
    ものが現れて来るのを感じて来る。あらゆる専門家の特権であり
    ます。秘密と申しても、無論これは公開したくないという意味の
    秘密ではない、公開が不可能なのだ。人には全く通じ様もない
    或るものなのだ。それどころか、自分にもはっきりしたものでは
    ないかも知れぬ。ともかく、私は、自分の職業の命ずる特殊な
    具体的技術のなかに、そのなかだけに、私の考え方、私の感じ
    方、要するに私の生きる流儀を感得している。かような意識が
    職業に対する愛着であります。

 専門領域で研鑽を積んできた人は、小林秀雄氏の この文を実感するのではないかしら。私は大学などの研究機関で研究してこなかったけれど、実務家 (a practitioner) として一つのこと (モデル 技術の制作) に 30年ほど専ら従事してきました。そういうふうに言えば格好いい響きがするけれど、30年も一つのことを追究していると、真っ直ぐな道を ひたすら歩いているようで寂しい。そういえば、山頭火の句のなかに次の句があったなあ──「まつすぐな道で さみしい」。山頭火は禅僧だったので、「道 (一生の大事)」 を追究して歌に託して折々の句を遺しています、その中から私の好きな句を次に転用しておきます──

    わかれてきた道がまつすぐ

    ひとり山越えて また山

    分け行つても分け行つても青い山

    風の中 おのれを責めつつ歩く

    どうしやうもないわたしが歩いてゐる

 これらの句は、一つのことを長いあいだ続けて探究してきた人は同感できるのではないかしら──「自分の喜びも悲しみも託して、この職業に深入りして」 いる山頭火の姿に共感するのではないかしら (私は共感できます)。共同研究という形態もあるけれど、学習研究は 畢竟 孤独の裡に積むしかないでしょう。先人たちの遺した成果を学習して、さらに一歩を進める新たな探究では、当然ながら自らが着想してその着想を自ら進めるほかない訳だから──「自分の職業の命ずる特殊な具体的技術のなかに、そのなかだけに、私の考え方、私の感じ方、要するに私の生きる流儀を感得している。かような意識が職業に対する愛着」 でしょうね、そして愛着ばかりではなくて、愛着と一体になった苦悩も 当然 存る。

 探究が順調に進捗しているときには嬉嬉として探究に夢中になっているけれど、そんなに順調に進捗することなどは ほとんど起こらなくて、たいがいは頭の中に浮かんでいるけれど霧に覆われたような朧気な モノ に形を与えるために苦しんでいることのほうが多い、そして その曖昧な モノ が実際の技術として形になって生まれても次に その技術が どの程度に役立つのか調べなければならない、この実証が (着想を技術に具体化することに比べたら) ずいぶんと年数を喰う退屈な (しかし、絶対にやらなければならない) 労役なのです。こういう労役をくり返して、制作と改良が進められる。

 技術のききめ (有効性)、技術の単純さ(単純性)そして技術の理論的整合性の 3つを互いに折りあいをつけながら、一つの体系として まとめていくのが 「(技術の) 使用法」 (methode) を創るということでしょう。このような制作・改良に長い年月 携わっていれば、当然ながら、私の考えかた・私の感じかたが methode の体系化に盛り込まれるし、さらに技術の改良を続けていれば、そのつど感じ考えたことが私のそれまでの感じかた・考えかたを変形することもある──そして、その感じかた・考えかたが生活のうえに現れてくる。社会のなかで生活していれば生活そのものに独創などは有り得ないけれど、自らが制作した技術 (あるいは、作品) は独創なのだし、その独創物が なんの変哲もない普段の生活のなかに なんらかの影を落とす (あるいは、彩りを添える)。それが 「私の人生観」 として現れるのではないか。

 我々は、意欲すること、計画すること、そして創造することの実践によってのみ生活 (人生) が どういうものなのかを知ることができ、自らの考えを検証することができる。そういう生活を一つの 「人格」──自律的意思を有し、自己決定的である個人──として自己主張して仕事によって応じれば、(そういう人は人生論を語らずとも) その生活は 「私の生きる流儀」 を立派に現しているのではないか。

 
 (2021年 8月15日)


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