anti-daily-life-20210915
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You are only a man, but you are trying to make yourself God! (John 10-33)

 



 小林秀雄氏は、「私の人生観」 の中で次の文を綴っています。

     人間は何と人間らしからぬ沢山の望みを抱き、とどのつまりは
    何んとただの人間で止まる事でしょうか。

 60歳を越えた人であれば、自らの青春時代を顧みて、小林秀雄氏のこの ことば を切に感じるのではないか──特に、野心を抱いていた人は。私は若い頃に野心を抱いたことはなかったけれど、それでも青春時代には或る程度の夢(自らが成りたい像)を抱いていたし、68歳になった今、いわゆる「なにものにもなれなかった」自分に対して失望しています。まさに、小林秀雄氏の言う「何んとただの人間で止まる」ことになった。でも、それを失望しているけれど悲観している訳ではない、たぶん多くの [ ほとんどの? ] 人たちにとって、此んな所が此んなもんにやという感想ではないか。血気盛んな若い頃には、もし その若者が向上心の強い人であれば、「ひとかどの人物」になってやると思うのは自然なことだし、若者が当初から「平々凡々に」生活したいと思うことは不自然だと思う──「平々凡々に」生きるということが どれほど難しいことかは老年になって初めて悟ることができるのだから。

 私の生活を振り返って、常に感じてきたのは、「私の居場所がない」ということでした。そして、私は、高校生の頃から、自らが「宙ぶらりんの」生活を送ることを予感していました。そう感じていたのは、私が多感だからという訳ではなくて、ひとつの事を為すときに常に相反する考えがぶつかっていたということに因る──金持ちになりたいと思うと、直ぐに反対の考え(「僧は一衣一鉢のほかは財宝を持たず (「正法眼蔵随聞記」)」 が ブレーキ として作用してきたし、有名になりたいと思うと、直ぐに反対の考え (「愛名は犯禁よりもあし (「正法眼蔵」)」 という ことば が私の頭に浮かんで ブレーキ として作用してきました。それがゆえに、若い頃から、やる事なす事に対して、私は満足したことはなくて、いつも 「これは私の望んだ仕事ではない」 という不承知を覚えていた。30歳から 40歳になるまで、歴史の偶然によって、私は RDB を日本に導入普及する仕事に就いて データベース の領域で 「超 売れっ子」 になって、そうとうな金銭を稼いでいましたが、そのときも いつもの 「これは私が望んだ仕事ではない」 という思いがあって、結局 そういう仕事を辞めてしまった──それがもたらした恩恵は、「引きこもりの下流老人」 という貧乏生活の結末だった www. では、そういう道を選んだことを後悔しているのかと問われれば、素直に 「否」 と応えるでしょう。でも、「否」 の反対は 「是認」 ではない、その道を歩んできて 「満足」 かと問われれば、素直に首肯できない (苦笑)。ちなみに、僧侶になって修行する覚悟があるかと問われれば、たじろいでしまう。覚悟をもって貧乏になって、清貧につとめようとした訳ではない。とどのつまり、私は一事に専念することのできない 「下手気の抜けぬ未熟柿 (なまじゅくし)」 なのだなということがわかっただけです (苦笑)。

 小林秀雄氏の言う 「人間らしからぬ」 というのは どういう意味なのか。たぶん、人間の反対語として考えられているのは 「超人 (あるいは、神)」 でしょう。では、私は 「神」 という存在 (の性質) がわかっているのか、、、それに対しては 「否」 と言うしかない。この辺りが 曰く言いがたい論点 (信仰の論点) になる、私は聖書 (新約聖書) を いくどか くり返し読んできたけれど、信仰をもって読んだのではなくて、西洋の精神を学ぶために読んだのであって、ふとどきであると非難されるような読書でしかない。ただ、聖書を読んできて──そして、文学・哲学・歴史に親しんできて、さらに実社会を観てきて──思うのは、人間というのは 「得体の知れぬ不条理な生き物」 だなということです。そういう人間が集まって造った社会のなかで、「平々凡々に」 生きるということが いかに難しいか、、、。澤木興道老師 曰く──「人間がえらくなったのが仏じゃないぞ、えらくならんでもいい、人間をいっぷくしたのが仏じゃ」 と。ただ、「人間をいっぷくする」 ことが ひどく難しい、、、下手すれば、私のように中途半端に そこに逃げ込んでしまう (苦笑)、ただの人間で止まってしまう、、、。

 
 (2021年 9月15日)


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