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They may look and look, yet not see;... (Mark 4-12) |
大切な事は、真理に頼って現実を限定する事ではない、在る
「真理に頼って現実を限定する事」 というのは、喩えてみれば、クッキング (cooking) などで使われる 「型抜き」 カッター を以て材料を 常に一定の型に切り抜くようなことでしょうね──自分の見たいものしか観ていない。「考える事によって抽象化する」 というのは、考える際に 或る任意の 「観点 (見地、見かた)」 に沿って その 「内包 (性質)」 を作ってしまう。その 「内包」 が 「外延 (集合)」 として具体的に記述される場合には、「内包」 を検証できるけれど、高度に抽象化されている場合には具体的な検証のしかたはない──数学のように高度に抽象化された対象 (モノ) を扱う場合には、論理的 「推論 (演算による証明)」 という手立てがあるけれども、われわれが ふだん 話す中身では論理的に厳正な演算証明は成立しない。ゆえに、われわれが ふだん 話す言語では、高度に抽象化された語──たとえば、「愛」 とか 「正義」 とか 「自由」 とか 「民主主義」 などのような語──は、曖昧な定義 (大雑把な定義) のなかで、それぞれの人たちが おのおのの 「意見」 を述べるにとどまざるを得ない。小説家・詩人・画家は、われわれ衆人と違う点は、「見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化」 できている点でしょうね。眼球の構造は、われわれ衆人も小説家・詩人・画家も違っている訳ではない、しかし 明らかに彼らは われわれとは異なる見かた・考えかたをして、彼らの観ている対象を記述している──すなわち、観ることが考えることと一致している。そうであるから、「見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化する」 ことが できない訳ではないけれど、それができるようになるには、長年にわたって そうとうな習練が前提になっているのは確かでしょう。
小説家・詩人・画家にとっては、「視点が目新しい」 という評価など ナンセンス でしょうね。そんな程度の思考力であれば、「表現法の新しさや或る芸術味などだけによって価値のあるものは、すべて速かに古臭くなる」(A. フランス (小説家))。いっぽう、模倣は創造の起点であると云われることが多いけれど、見る事が考える事と一致していないような初心の人が先達の作品を真似ても滑稽に陥る。私のような程度の (芸術の) シロート でも、模倣品を観て (あるいは、読んで) 「なんか変だわ (違和感を覚えるわ)」 と直感する理由を 「花鏡」 (世阿弥 作) のなかで見つけました──
至りたる上手の能をば、師によく習ひては似すべし。習はで
もう一つ、「正徹物語」(正徹) から──
得たものの歌は、なに事をいひ出したるも、一ふし興ありて
文中 「得たもの」 というのは、「見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化」 した作家のことだと思っていいでしょう。凡人が──あるいは、或る程度 才量のある人が──天才の作品を模倣して、天才を模倣できる自らの才量を誇ろうとするとき、滑稽な・醜悪な様相になる。よしや なにごとにつけ 創造は模倣からはじまるとしても、長年の習練をしていない、そして 技術が a second nature になっていない次第では、「制作する (創造する)」 というのは難しい。自分が専門としている分野において要請されている特殊な技術を身につけていなければ──言い替えれば、「見る事が考える事と同じになるまで」 視力が進歩していなければ──、創造の基 (もと) となる模倣はできないでしょう (私は モデル 論を学習していて、自分には数学 [ あるいは、論理 ] の視力がないことを痛感しています [ 苦笑 ])。
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