anti-daily-life-20211101
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..., to give you the Spirit, who will make you wise and reveal God to you,...(Ephesians 1-17)

 



 小林秀雄氏は、「私の人生観」 の中で次の文を綴っています。

     仏教によって養われた自然や人生に対する観照的態度、
    審美的態度は、意外に深く私達の心に滲透しているので
    あって、丁度雑沓 (ざっとう) する群衆の中でふと孤独
    を感ずる様に、現代の環境のあわただしさの中で、ふと我
    に還るといった様な時に、私はよく、成る程と合点するの
    です。まるで遠い過去から通信を受けた様に感じます。
    決して私の趣味などではない。私はそうは思わぬ。正直に
    生きている日本人には、みんな経験がある筈だと思って
    います。人間は伝統から離れて決して生きる事は出来ぬ
    ものだからであります。

 この引用文は、論理の展開が強引なので──たとえば、「意外に深く私達の心に滲透している」 とか 「正直に生きている日本人には、みんな経験ある筈だ」 とか──、俗に云う 「ツッコミやすい」 のだけれど、いっぽうで私は私の 「実感」 として小林秀雄氏の言っていることを全面的に同意できる (あるいは、反論できない)。「決して私の趣味などではない。私はそうは思わぬ」 というふうに小林秀雄氏は言っているけれど、私は 逆に 「私の体験 (趣味) から」 全く同意できると言うしかない。私は、30歳の頃、「禅」 に惹かれて それを信奉するようになった、そのことは今でも続いています──私は僧侶ではないので、勿論 仏法を厳正に体現している訳ではなくて、ほんの真似事にすぎないのですが、道元禅師を慕っています

 30歳の頃の私には、仏法 (禅) にすがりたくなるような契機が取り立てて起こった訳ではない。禅を信奉するようになった理由を強いて探すとすれば、私の 「自然や人生に対する観照的態度、審美的態度」 が禅に感応したとしか言いようがない。30歳の頃から 50歳くらいまでは坐禅を まいにち のように組んでいました──それ以後、坐禅を怠けてやっていないけれど、思い出したかのように坐禅したくなる、「私も坐禅を昔は まいにち やっていた」(そして、今は やっていない) というふうに昔話を言うことを 「昼行灯」 と云って非難するそうですが、今の私は まさに その体たらくに落ちています (苦笑)。

 禅の書物を今でも ときどき 読んでいますが、禅は実践であって説諭ではない──澤木興道老師曰く、「修行して ボツボツ さとりをひらくのではない。修行が サトリ であり、この サトリ を行ずる──仏祖の坐禅を坐るのである。うっかりすると仏法を階段のぼることのように思うてしまうが、そうじゃない。いつでも今、一歩ふみだしたところが一行一切行、一切行一行である」。仏法では 「血脈」 という言いかたをしますが、それが 「伝統」 ということではないか。

 
 (2021年11月 1日)


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