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For even if that letter of mine made you sad, I am not sorry I wrote it. (2 Corinthians 7-8) |
昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事
宮本武蔵の 「五輪書」 を私は かつて (たぶん、30歳代の頃?) 読んだことがあるけれど、その中身を ほとんど 忘れてしまっています──宮本武蔵 (あるいは、「五輪書」) について私が今でも印象としてもっているのは、「精神 (心持ち) が ずいぶんと強い人だな」 ということです。だいたい 剣道を真面 (まとも) にやったことのない私が 「五輪書」 を ちゃんと読める訳がない。私が 「五輪書」 を読んだのは若い頃なので、その年頃にありがちな特徴なのですが、人生の 「深淵な」 英知を得たい、そして その英知を自らの生活のなかで指針として使いたいというような虫の良い錯覚に陥っていたのでしょうね──「五輪書」 のような歴史的な著作を読んで現代にも通ずる英知を得ようという下衆 (げす) い下心 [ 大衆 ウケ する欺し ] が見え透いている、「五輪書」 を読んだら、江戸時代初期には そういう考えかたをする武士もいたというふうに留めておくのが宜しい。
自らの過去を振り返って、後悔や反省を まったく しないという人は稀ではないか。たいがいの人たちは、程度の違いこそあれ、過去の自分 (の行為) に対して なんらかの後悔・反省を いくぶん感じるのではないか。しかし、時は断絶することなく流れ、過去の自分が今の自分をつくっているのだから、あの時の私も私だし今の私も私なので、今さら後悔しても過去を変えることはできないと思えば、一時 (いっとき) 後悔・反省しても直ぐにそれを忘れることが多いのではないか──そのような態度 (少々の後悔・反省を忘れた態度) を指して、宮本武蔵が武士の覚悟として言った 「我事において後悔をせず」 を猿真似して 「私は後悔したことなどない」 というふうに われわれは大雑把に言っているだけではないか。
私は 本ホームページ のなかで 「反 コンピュータ 的断章」 「反 文芸的断章」 を かれこれ 17年くらい書き連ねていますが、それらの エッセー のなかで後悔・反省も綴っています。しかし、自らの生活を否定するような大いなる後悔は一度も感じたことはない。私は 「文学青年」 的気質が強い いわゆる 「こじらせ」 系の性質ですが、いっぽうで楽天家の性質も 存分に付帯しているようです。だから、過去の私が どういう思考・行動をしていたかを明らかにするために エッセー を綴っていて、懺悔するために綴っている訳ではない──今の私に至った過去 (あるいは、今の私の考えかた) を見届けるために エッセー を綴っています。それが 「命の持続感」 ということではないか。
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