× 閉じる |
They will look and look, but not see,... (Matthew 13-14) |
「意は目に付き、心は付かざるもの也」、常の目は見よう
この文のなかの 「心眼」 というのを 「見ようとする意が目を曇らせる。だから見の目を弱く観の目を強くせよ」 という意味では、私は なんとなく わかるような気がするけれど、実感はない。こういう 「心眼」 というのは、剣道のような武道では高段者になれば必然と身につくのかもしれないけれど──あるいは、「心眼」 が身につかなければ高段者になれないのかもしれないけれど──、私のような武道をやったことのない者には その実感などあろうはずもない。おそらく、若い頃 (20歳代、30歳代) の私であれば、こういう深遠な抽象物を わからないままに感銘して、そこから生活の叡智を獲得しようとしたでしょうね──それこそが、「見ようとする意が目を曇らせる」 ことだとは知らないままに受用していたでしょう。小林秀雄氏は武道はやっていなかったけれど骨董品を集めていたので、骨董の鑑定眼として 「観の目」 を養ったのでしょうね。
「心眼」 というのは 「無私」 の精神のなかで作用するのでしょう。対象物から なんらかの効用を得ようという私心があるようでは、決して身につくことはないのでしょうね、だから、「観の目」 を強くするには、よそ見しないで一事に専念することが大前提になるのでしょう。そして、長い年月を費やして、技術の修練を続けて究めなければ身につかない。おそらく、長い年月のあいだ技術の修練を続けたからといって、誰でもが身につくというものではないのかもしれない──私は、30年近く モデル 論を学習研鑽してきましたが、「観の目」 を持ちあわせていないので、あくまで想像でしか言うことができないのですが。
「無私」 という状態も難しいのだと思う、私のような我欲の強い ヤツ には決して辿りつける境地ではない、そもそも 「無私を実感する」 ということは (「無私」 という元来の意味において) 矛盾ではないか。それでも、仏教 (禅) で云う 「底のぬけた柄杓」 という状態を──その状態は、禅の最高の境地と云われていますが──私は わからないままに惹かれています。ただ一つ確実に言えることは、「観の目」 も 「無私」 も実践のなかで実現できるのであって、観念ではないということです。「教外別伝」 「不立文字」 を宗 (むね) とする禅は、その いっぽうで それらを説くために夥しい数の仏典を遺しているので、それらの仏典のなかの僅かな書物を読んで、われわれは うっかりすると禅をわかったつもりになってしまう。ただ、わかっているつもりになっている己を わかっている、というのが私の僅かな救いなのかもしれない、、、しかし、「なんとなくわかる」 は、決して 「わかっている」 という範疇にはふくまれない、寧ろ 「わかっていない」 という範疇にふくまれる──「なんとなく わかっている」 ほうが 「わかっていない」 ことに比べて すぐれている訳ではない、もし 「なんとなく わかっている」 ほうが すぐれているというのであれば、 「目くそ鼻くそを笑う」 状態であるという誹 (そし) りを免れないでしょう。
|
× 閉じる |