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..., which look fine on the outside but are full of bones and decaying corpses on the inside. (Matthew 23-27) |
美しい自然を眺めてまるで絵の様だと言う、美しい絵を見て
私は モデル 論 (事業分析・データ 設計のための モデル 作成技術) を 30年近く探究してきて、そして その傍ら 文学・哲学・英語を学習してきて、われわれの生活の核心は、「『意味』 を伝える」 ことにあるという確信に至った。そして、「意味」 は 「形式」 (文法、形態) に載って運ばれるという (高校生でもわかる) 極めて当たり前のことを なんと 60歳を越えて はじめて 「納得」 しました (実感として腹に入りました)。「芸術家の最初の素材は、決して人生ではなく、つねに他の芸術作品である」 (アンドレ・マルロー、「芸術心理学」)、感性も努力して獲得される才でしょうね。ピカソ は次の ことば を言ったそうです──
個性は個性的になろうとする意志から生まれるものではない。
「先ず (先達あるいは手本を) 真似ろ」 とは 古来 言われてきたことではないか。手本を真似ているうちに、対象を描く技術を習得して じぶんの感性を養うことができるのでしょう。そして、それらの技術・感性が或る程度上達したとき──非常に高い レベル に達したとき──、対象が伝える 「意味」 (すなわち、芸術家が体験した情感) を掴むことができるようになるのではないか。芸術は技能ではないのは確かでしょう、芸術家が体験した情感 (「意味」) の伝達でしょうね、しかし 「意味」 を伝えるには それに ふさわしい技術がいるのも確かでしょう。技術と感性が (非常に高い レベル で) 相まってはじめて、対象に 直接 向かって 「意味」 を掴むことができる。これは なにも 芸術に限ったことではなくて、われわれの生活でも そのまま 通用するでしょう。われわれは、対象について (われわれの外部で生起する [ 存在する ] 事態・事物、あるいは じぶん自身をも対象にして) 「意味」 を見つけられないとき──「『意味』 を喪失したとき──、対象の 「存在」 を見失う。われわれが精神 (知・情・意) をもっている限り、ものごと の 「意味」 を探るでしょう。
「如是」 (あるがまま) というのは仏教の偉大な教えだけれども、それを実感できるには──その実感を 「悟り」 と云っているのですが──並々ならぬ修行がいる、修行そのものが悟りであると実感するには (「意味」 を探ろうとして精神の地獄に陥っている じぶんをも あるがままに観るには) 大悟していなければ できやしない。「如是」 ということを頭でわかっていても生活のなかで実践できていないような われわれは、空念仏を唱えているだけでしょうね。そうであれば──「意味」 から逃れられないのであれば──、それを徹底的に追究すればいいではないか、その底に至って いったい なにを得ることができるか、、、「思量箇不思量底 (箇の不思量底を思量す)」、「非思量」(薬山弘道大師(禅僧))。追究しても その底なんて ないわ www. 薬山大師に突き放されただけだわ。僧でもない──出家して修行していない──われわれは、われわれが置かれた生活の 「場」 で われわれ成りの 「意味」 を探ればいいではないか。そして、苦しんで悩めばいいではないか。「人生に 『意味』 はない」 などと悟ったふうに小賢しく言い散らして、僧の真似事をして、「如是」 などと口走らないことだね。
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