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How wonderful is the coming of messengers who bring good news! (Romans 10:15) |
私は、バス を求めて、田舎道を歩いて行く。大和三山が
私は この文を読んだとき、亀井勝一郎氏の綴った文かなと思いました──作者の名前を隠して この文を読めば、きっと そう思ったでしょう。小林秀雄氏と亀井勝一郎氏は、同時代に活躍した批評家です、私は この二人を好きで二人の作品を大学生の頃から今まで──私は もうすぐ 69才になりますが──50年弱のあいだ愛読してきました。したがって、私は、二人から多大な影響をうけているのは確かでしょう。文学や哲学に興味を抱いている人たちは、「己れを凝視する」 傾向が強い、「文学青年」 だった私も ご多分に漏れず その傾向が強い。私が小林秀雄氏の この文に惹かれて引用した理由は、次の箇所です──「『万葉』 の歌人達は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分達の感覚や思想を調整したであろう」、すなわち 生々しい 「現実」に依る反省という心組みを大切にしている彼の態度に私は共感しているのです。
私は、40才すぎから今に至るまで、「論理 (Logic)」 と モデル 論 (現実的事態を写像した形式的構造) を学習研究しています──すなわち、形式言語に依る論理構造を学習研究してきました。そういう学習研究では、思考は抽象的論理の構成に注がれる。そして、ややもすれば、モデル 論の仕事を離れた日常生活においても、「法則」 や厳正な 「論理」 を適用してしまうという罠に陥りそうになる。自然言語も形式言語も その伝える モノ は 「意味」 です、ただ 形式言語の場合には、語 (正確に言えば、項) と 「意味 (あるいは、値)」 が 「1-対-1」 であるという清潔な規約がある。その清潔な規約を ややもすれば 自然言語のなかに強要しそうになる──しかし、「説示一物即不中」 というのが自然言語に依る コミュニケーション の実態ではないか、言い尽くせぬ 「現実」 というのが 言い替えれば ことば の もどかしさ に直面するのが自然言語を使っているときの われわれの実態ではないか。だから、われわれは 古来 「表現」 を追究してきたのではないか。その 「表現」 に対峙しているのは、動かし難い 「現実」 でしょう。われわれが 「現実」 を いかに 「解釈」 しようとも、そして その 「解釈」 を元にして取り止めもない空想に走ろうとしても、「現実」 は びくともしない。ゆえに、われわれは、「現実」の 「質量に従って、自分達の感覚や思想を調整」 せざるを得ない。この事実を忘れた 「表現」 は脆弱/空虚となることを免れないのでしょう。
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