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If you think you are standing firm you had better be careful that you do not fall. (1 Corinthians 10:12) |
私は、絵を見乍 (なが) ら、岩というものに対する雪舟の
若い頃の私であれば、「文学青年」気質が強かったので、この引用文を読んで、芸術の「本質?」が綴られていると感知して、なんとなくわかった気になったでしょうね。69歳にならんとする今の私は、年甲斐もなく 「文学青年」 気質が未だに強いのですが、若い頃に感知したと思われる 「本質?」 とやらを──なんとなくわかったつもりでいた感覚を──実感として はっきりと体得しています、「本質?」 などという曖昧なことばを使って誤魔化そうとはしないで、その実感を彫塑することができる。
小林秀雄氏のこの文を次のように書き換えてはどうか──
私は、現実的事態を見乍 (なが) ら、「論理」 というもの
この書き換え文は、それなりに様 (さま) になっているでしょう www. そして、この書き換え文は、F-真 (事実的な真) と L-真 (導出的な真) を的確に記述している、すなわち 「正しい (真である)」 ことに向かう数学者・哲学者の心得を示しているでしょう。そして、このように書き換えて、書物などに綴れば、すごく的を射たことを 「個性」 的な文体 (文学的な文体) で述べていると読者の多くは思うでしょうね──この書き換え文が小林秀雄氏の文を パク っているということに気づかないで www. こういう書き換えが、天才の説を真似て、その説を実感として覚えたならば、それを自らの文にして消化するということではないか。
数学基礎論および現代哲学 (デイヴィッドソン、クワイン、パットナム の哲学) を学んで、「論理」 (形式的構造) が中核となるような領域において、私は 「本質」 とか 「実体」 などという ことば を からきし信用しなくなった。正直に言えば (そして、誤解を恐れずに言えば) 私は構文論を重視して、意味論をお断りなのです。なぜなら、(「論理」 において) 構文論的に証明可能であれば意味論的に成り立つし、その逆も然り。それが 「完全性」 ということです。
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