anti-daily-life-20220615
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Your faith has made you well. (Matthew 9:22)

 



 小林秀雄氏は、「信仰について」 の中で次の文を綴っています。

     例えば、私は何かを欲する、欲する様な気がしているのでは
    たまらぬ。欲する事が必然的に行為を生む様に、そういう風に
    欲する。つまり自分自身を信じているから欲する様に欲する。
    自分自身が先ず信じられるから、私は考え始める。そういう
    自覚を、いつも燃やしていなければならぬ必要を私は感じて
    いる。放って置けば火は消えるからだ。信仰は、私を救うか。
    私はこの自覚を不断に救い出すという事に努力しているだけ
    である。

 小林秀雄氏のこの文を読んだとき、ウィトゲンシュタイン 氏の 「哲学探究」 を読んでいる気がしました──「哲学探究」 の 「規則と行為」 (行為論) で、ウィトゲンシュタイン 氏は 「意志」 を扱い、意志することは行為すること自体でなくてはならないという考えを綴っています。小林秀雄氏のこの文は、まるで ウィトゲンシュタイン 氏の文と錯覚してしまうくらい私は二人の類似性を感じました。小林秀雄氏のこの文だけではなくて、彼の他の エッセー を読んだときも、ウィトゲンシュタイン 氏に似た思考を私は感じています。さらに言えば、小林秀雄氏と ウィトゲンシュタイン 氏は、道元禅師と体質的に似ている感を私は覚えます── この三人は私の愛読書です、そして この三人の思考・性質には、なにかしら共通する something を感じています。

 さて、「自分自身を信じているから欲する様に欲する。自分自身が先ず信じられるから、私は考え始める」 という自覚は個人主義の大前提となる自覚でしょう、そして この自覚が偏狭な利己に陥らず また観念的な利他にも陥らず 一者と他者を包括した意識となっているのではないか。「いつも燃やしていなければならぬ必要を私は感じている。放って置けば火は消えるからだ」 という意識が文学上・哲学上の自覚であり仏法上の悟り (すなわち、修行そのもの) ということではないか。あらゆる知識を疑ったあとで、疑いえぬ確実なこととして 「考える自己」 (「我思う、故に我在り」)に至った デカルト 氏の遡及法を (再び 「(この世界に戻って) 生きる自己」として) 還相した形が小林秀雄氏・ウィトゲンシュタイン 氏・道元禅師の云う 「行為」 ではないか。だから、「欲する事が必然的に行為を生む」 ことになる──「規則 (言語使用や戒律などの ルール) に従う」 ということは実践である、規則に従っていると信じていることは、規則に従っていることではない、それゆえに人は規則に私的に従うことができない。彼らは独我論を認めつつも (否定していないけれど)、他我や モノ の実在を自我との関係のなかで捉えて自我の存在を自覚している。対象にぶつかって 「私」 を確認しつつ、意識のうえでは対象を 「私」 に同化して、「私」 の思考を拡大していく。しかし、この自覚は、放って置けば鈍化していく。だから、「この自覚を不断に救い出すという事に努力しているだけである」──それが、「行為」 (欲する事が必然的に行為を生む様に、そういう風に欲するである) なのだから。意欲し計画し実践する──自分自身を信じているからこそ為せる所行でしょう。

 仏法の例をあげれば、澤木興道老師がおっしゃっていたけれど──ただし、老師のおっしゃったことを正確に私は覚えていないので、大まかにしか引用できないけれど──、「肉を食べる勿れ」 という戒律は、「肉を食べない」 という意志にウラ打ちされていて、さらに その意志は 「生類を殺さない (殺せない)」 という意欲 (性根) から生まれている、と。その自覚なしに ただ破戒しないとしても、修行になるのか、、、体裁を整えて嫌々やっている修行は、いずれ堪えられなくなる。でも、当初に まことの発心があれば、「形」 (戒律) を真似ているうちに身心が整い一如となる、「威儀即仏法、作法是宗旨」 と云われるように、宗教は実践において できあがると云っていいでしょう──私が信仰している 「禅宗」 では、「本証妙修」 (修行が そのまま悟りであること) が宗旨です。なにがしかの文脈において、「形」 (行為) が 「意味」 を表す (現す?)、あるいは 「意味」 は 「形」 に載って運ばれる、と。

 文学者でも哲学者でも僧侶でもない私のような凡人が彼ら天才の思想を 「解釈」 しても、真意を外してしまう歯痒 (はがゆ) さを感じています。ただ、本 エッセー で引用した小林秀雄氏の文は、ウィトゲンシュタイン 氏・道元禅師の思想に通じる脈 (みゃく、すなわち つづきぐあい) を私は感じています。そして、小林秀雄氏のこの文を読んだとき、私が 日頃 感じていることを代弁していると共感した次第です。

 
 (2022年 6月15日)


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