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Happy are those who remain faithful under trials,... (James 1:12) |
表現するとは、己れを圧 (お) し潰 (つぶ) して中味を
この文が伝える 「意味」 は、多くの人たちが思い浮かぶでしょうが、文の 「表現」 は、小林秀雄氏の独特な、そして正確絶妙な描写ですね。試しに、自分が こういう文を書くことができるのか想像してみればいいでしょう。
「文学青年」 気質の人は、考えるときに書きながら考える傾向が強いようです (少なくとも私はそうです)。文を綴るとき、私は自身が わかっていることを綴るということが少ない、わからないから (わからない考えを はっきりさせるために) 書きながら考えます。書かないと、すなわち頭のなかだけで考えていると、どうしても頭のなかに浮かぶ語彙が日常言語 (口語) に限られて、私は思索を深めることができない。書きながら思索を深めるとなれば、「己れを圧し潰して中味を出す事だ、己れの脳漿を搾る」 事になる。そうなれば、自 (おの) ずから個性的な語彙を使い個性的な文体になる。私は、いわゆる技術書と云われる著作を書いてきたときも、そういう態度で書いてきました。だから、文体には いきおい 個性の臭みが漂う──拙著に対する読者の意見 (ウェブ [ 2チャンネル あるいは mixi?] に アップロード された意見) のなかに、次のような コメント があったそうです、「傲慢さが芸になっていない」 と www (私は、その コメント を直接に読んでいないので、又聞きしただけですが。)
「文学青年」 たる者、作文作法くらいは 勿論 知っています。しかし、私は、作文作法を遵守した文を綴ることは敢えてしない。というのは、小林秀雄氏が述べていることを重んじているので。着想が生まれた そのままの状態を私は書きとめたいので。そして、私は校正を ほとんど やらない。「読者にわかりやすい」 文を綴るのが書物の たいせつな点であると云われていますが、私は 寧ろ 読者が著者の考えを──著者の着想が生まれたときの状態のままに──掴むようにしてほしいと思っています。だから、「傲慢さが芸になっていない」 というふうに私は非難されるのでしょうね www. 本 ホームページ の 「反 コンピュータ 的断章」 「反 文芸的断章」 で綴ってきた エッセー も、書きながら考えて、校正を一切していない。私の文体が嫌いならば、私の書いた書物を読まなければいいだけの話です。
ゲーデル の論文には、ひとつの誤字・脱字がなかったそうです。ゲーデル の几帳面な性質がそうさせたのでしょうね。私は、デーゲル を敬愛していますが、こと文章作成に関しては ゲーデル を手本にはしていない (苦笑)。
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