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when he came close to the house, he heard the music and dancing. (Luke 15:25) |
音楽の美しさに驚嘆するとは、自分の耳の能力に驚嘆
小林秀雄氏の この文を私は やや賛同するようになったけれど、納得している訳ではない。納得できていない理由は、勿論、私の側 (がわ) の問題なのです。私は、音楽が大好きです、まいにち 音楽を聴いています──その音楽の ジャンル は、クラシック 音楽・歌謡曲 (ポップス)・ジャズ・民謡・童謡というふうに広範に及んでいます。音楽のない生活を私は考えられない。
しかし、私は楽譜が読めない。つまり、音楽の生成される技術を 皆目 わかっていない。だから、音楽を聴いても、いきおい全体的な 「印象」 の好みでしか判断できていない。音楽のそういう聴きかたをしていれば、「文学青年」 であった若い頃には、音楽を音楽として聴くというよりも、文学的な (あるいは、人生の) 「意味」 を音楽のなかに探ってしまう (その傾向は、年老いた今も変わってはいない)。交響曲とか ピアノ・ソナタ は、そういう聴きかたをしても、「たぶん」 空振りすることがないのですが、ピアノ・コンチェルト や弦楽四重奏曲となれば、そうはいかない──ピアノ・コンチェルト や弦楽四重奏曲は、音そのものに乗らないと聴き通すことはできないでしょう。私は、交響曲や ピアノ・ソナタ を好んでも、弦楽四重奏曲を苦手です (ピアノ・コンチェルト については、音の流れに乗れるようになってきました)。だから、「音楽の必然性」 を私は わかっていない。ゆえに、小林秀雄氏の この文を私は (やや賛同しても) 納得できていないのです。
作曲家は、勿論、曲全体を以てして、なんらかの 「印象」 を伝えることを意図しているでしょう。ベートーヴェンは次のように言ったそうです──「人の心から出たものを人の心に返す」。彼のような天才がそう言うのだから、それは きっと正しいのでしょう。曲を聴いて心が揺さぶられる、それでいいではないか、私のような音楽の シロート にとっては慰みになる ベートーヴェン の ことば です。 ただ、その慰みが昂じて、音楽を文学的に聴くというのは、曲の拡大解釈や歪曲を生んで、的を外すでしょうね。音楽の 「表現」 というのは、個々の音符を的確に並べる技術の成果です。私は、その成果 (「印象」) をたのしんでいるのであって、その成果を作る技術を 皆目 わかってはいない。その技術をわかっている人たちを私は うらやましい。
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