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and the earth with everything in it will vanish. (2 Peter 3:10) |
人間の化けの皮を、あんまり剥がすともはや人間では
「現実暴露が、聡明な人間の特権の様な顔をしている」 というのは、いわゆる 「人間を観察して分析して、人間とは 『本当は (あるいは、本質は)』 しかじかの正体である」 ということかな。言い替えれば、観察対象の「形相」 を剥がして、「実質 (本質?)」 を暴くってことかな。
私は、人間について、(骨格構造、内蔵構造、筋肉構造などの肉体構造を除いて、) こと精神に言及するときに 「本質?」 などということを 毛頭 信用していない。「本質?」 という語を多用する人を私は警戒しています──そういう語を多用する人は、「法則症候群」 に陥っていて、その人の思考が短絡的であると思う。
私の大好きな哲学者の一人である ギットン は、次のように言っています(「読書・思索・文章」、安井源治 訳)──
思考には骨組みとなるような体系が必要であるが、しかし
この文のなかで、「体系」 という語を 「本質?」 や 「法則」 と読み替えれば、私の言っていることを ヨリいっそう的確に代弁してくれるでしょう。
「論理」 で用いられる全称化・存在化・単称化については、本 ホームページ の あちこちで今まで述べてきて、ここで同じことを 再度 述べるつもりはないので割愛しますが、「本質?」 などという語を多用する人の思考を 私が先ほど 「短絡的」 と綴ったのは、そういう人は (たぶん、書物を なまじっか多量に読んできて、いつしか 「法則症候群」 に陥ってしまって) 全称を前提にして語る傾向が強いと感じたからです。私も、たまに そういう傾向に陥ることがあるけれど、そういうときには、必ず 「補集合」 を考えます (あるいは、対偶をとって考えてみます)。そうすれば、やみくもに、或る一つの性質を 「本質?」 などと口走ることは避けられるでしょう。
数学・哲学は、「形相」 を 「論理」 を使って 「形式的構造」 に変換するのですが、文学では、「形相」 の表現法こそが文学を文学たらしめている成立条件でしょう。事象・人物・事物について、ひとつの 「生の」 現実 (虚構された、しかし質量のある形態・形相) として成立させるのが文学でしょう──その 「生の」 現実のなかでは、我々は 「化けの皮」 を被って生きている。そういう 「化けの皮」 を被った人間の交錯した社会模様が われわれの人生の実態ではないか。だから、「人間の化けの皮を、あんまり剥がすともはや人間ではなくなる恐れがある」、「暴露された現実には、もはや人間の影がなくなっている」。
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