anti-daily-life-20221001
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Don't be afraid, only believe. (Mark 5:36)

 



 小林秀雄氏は、「或る夜の感想」 の中で次の文を綴っています。

     作品を書くとは、読者を予想する事だ、見物の拍手を期待
    して演技する事だ。自分一人の為に書くとは、自分のウチの
    理想的見物の期待に添おうと工夫する事だ。人間は、孤独
    な反省に頼って己れを知る様には決して作られてはいない
    のである。常に他人が必要だ、いや他人を信ずる事が、他
    人に信じられる事が。

 「反 コンピュータ 的断章」 の今回定期更新のなかで述べたように、私は (実体主義よりも) 関係主義を信奉しています。関係主義は、「論理 (Logic)」 上では、モノ (事物・事象) とは関数のなかの パラメータ (変項) であって、パラメータ のなかに真とされる値が充足されたら、モノ が存在する」 という考えかたです。私は、若い頃 (20才代・30才代) には、実体主義を尊重していて、私自らが自発的に意欲し計画し実践して他の事物・事象に対して関係を形成すると思っていたのですが、年を重ねるにつれて、「社会」 (あるいは、じぶんが関与している領域) を強く意識するようになって、その 「社会」 のなかで じぶんが置かれている座標に思い巡らすようになりました。勿論、生活しているなかで、じぶんが自ら意欲して計画して実践するという考えかたは中核になっているのですが、その意欲・計画・実践には対象があって初めて成立するのであって、実践した成果 (評価) は、対象との関係のなかで得られるものでしょう。

 私は、小林秀雄氏ほどの著作を書いてきていないけれど、(共著・雑誌寄稿をのぞけば) 単行本を 10冊執筆してきました。その体験から言えば、小林秀雄氏の云う 「作品を書くとは、読者を予想する事だ、見物の拍手を期待して演技する事だ」 という思いを充分にわかる。この思いは、講演・セミナー の講師を務めるときにも、そのまま当て嵌まります。そして、著作出版とはべつに、本 ホームページ にて、「反 コンピュータ 的断章」 「反文芸的断章」 として、自らの思索を確認するような自省録を綴ってきました。その自省録は、小林秀雄氏の云うように まさに 「自分一人の為に書くとは、自分のウチの理想的見物の期待に添おうと工夫する事だ。人間は、孤独な反省に頼って己れを知る様には決して作られてはいないのである」 ことを実感しています──「自分一人の為に書く」 とは言いながらも、私は それらの断章の読者として、或る人 (不滅の恋人 エリーゼ と名づけておきましょうか (笑)) に向けて綴ってきました。その不滅の恋人に向けて、私は、私の考えかたを できるかぎり正直に晒してきました──私が語る相手は私の不滅の恋人であるので、私は相手を 「信じる」 ことができる。

 さて、作品を創ることを離れて、実生活のなかでも私たちは独りでは生きていけない、「常に他人が必要だ、いや他人を信ずる事が、他人に信じられる事が」。しかし、私は なかなか 他人を信用しない性質が強い。猜疑心が強いというのではなくて、臆病なのかもしれない。じぶんが期待されている役割を果たすとか、じぶんが成すべきことを為すという意味では、私はいっしょに仕事している人たちを疑うということを一切しないけれど、それでも じぶんの領分のことしか考えない性質が強い。単純に云えば、私は いわゆる 「自己中」 なのかもしれない。だから、「他人を信ずる事、他人に信じられる事」 を実感したことはない。親鸞聖人が法然上人に対する思いについておっしゃった ことば 「信じるほかに べつの仔細なし」 という捨身にも似た信心を私は うらやましい、親鸞聖人ほどの高徳の僧がおっしゃっているのだから、この信心は他人に誑 (たぶら) かされての狂信ではないでしょうね。アミエル 氏は、「日記」 のなかで次のように綴っています──

    偉大な信仰は偉大な希望にほかならない。それは伝授者から
    遠ざかるにつれて、ますますたしかなものになっていく。

 もし、われわれの生活 (人生) が、「生きる意味」 として 「希望」 を基底にしているのであれば、そして その 「希望」 が アミエル 氏の云うように 「信仰」 (あるいは、なにかを信じること) にほかならなくて、「伝授者から遠ざかるにつれて、ますますたしかなもの」 になるのであれば、われわれの信仰というのは、「希望」 とは逆説的になるけれど 「過去」 の人物 (伝授者) に信を置くことになるのでしょうね (キリストや仏陀が然り)。キリスト や仏陀と同時代に生きた人たちのなかで、キリスト や仏陀について 「信じるほかに べつの仔細なし」 と感応できた人たちは ほんの 10名程度でした──その信仰が やがて 世界に伝播しました。キリスト や仏陀の実生活上の細々とした性質が時代をへるにつれて捨て去られて、彼らの言説が昇華されて信仰を生んだのでしょう。その意味では、私にも信じる人物がいます──道元禅師と ウィトゲンシュタイン 氏です。

 もし、ウィトゲンシュタイン 氏が私の隣にいれば、私は次のように きっと言うでしょう、「君は訳のわからんことを グダグダ と言って、うっとうしいんだよ。君のような うっとうしい ヤツ は私を不快にするので、私の眼の前から消えてくれ」 と。実生活では、天才と云えども、独創的である訳はなくて──独創というのは、思想・作品などの創造物のなかにしかないでしょう──、われわれと同じような生活を送っていて、寧ろ変人と云っていいでしょうね。だから そういう人とは つきあいたくない。同時代に生きている人たち──私が接している生身の人物──を信じるというのは、実生活上の細々とした瑣事が介入してきて、そういう意味では、なかなか難しいのではないか。

 
 (2022年10月 1日)


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