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Someone is shouting in the desert,... (Matthew 3:3) |
人間は、その音声によって判断出来る、又それが一番確か
話相手の人格を判断するには、音声 (喋る声の調子) が一番に信用できるというのは確かでしょうね。感情の微妙な揺れが音声 (および表情) に現れるのは確かでしょう。私は、本 ホームページの 「反 コンピュータ 的断章」 「反 文芸的断章」 を綴ったら、WINDOWS の 「音声で読み上げる」 機能を使って、文章の音読を たまに聴きます。AI による音読なので声は一本調子であって、私が文を書いたときの感情などを考慮していない──音声で聴く理由は、文脈のなかで単語の響きに違和感がないか、助詞の抜けがないかを確認するためであって、文を音読したときに どういうふうに相手に伝わるかを知りたいためではない。私が自分の声の調子 (声の高低強弱および発話する間合い) を意識的に使うときというのは講演・セミナー の講師を務めているときです。私の講演・セミナー を聴いている人たちが それに気づいているかどうかは私には確たる手応えがないのですが、私は意識的に声を 或る程度 コントロール しています。今回の 「反 コンピュータ 的断章」 (Mind についての エッセー) のなかで、私は講演・セミナー の講師をするのが嫌になってきたことを綴りましたが、嫌になった理由の一つは、聴衆目当ての この作為的な行為も一因かもしれない。
私は、歳を取ると共に、じぶんの感情を表 (おもて) に現すことに対して嫌悪感を覚えるようになってきました。そうなった理由は、私にも わからない。案外、私の仕事 (事業分析・データ 設計のための モデル 作成) が影響しているのかもしれない。モデル を作成するときに、意味論 (あるいは、Data Analyst の価値観) を重視することに対して、私は とても嫌悪感を覚える──歳をとるにつれて、私は構文論 (文法、論理規則) を重視するようになってきました。「真 (正しさ)」 ということ (「導出的な真」 および 「事実的な真) を重視するようになって、個人の 「解釈」 を嫌うようになってきました。勿論、この論理的 「真」 というのは、それが成立する領域は限られていて、日常生活では 「感情」 が「論理」 の正しさに往々にして (多々?) 先行することは百も承知しています。そして、幸いにも、私には文学愛好家の一面も存る──私は、たぶん、他人 (の人情) の機微を観るに聡 (さと) いほうだと思う。その機微というのは、その人の音声や表情に偽りなく現れる。そして、それを直感的に知る──直感的に知ること、「又それが一番確かだ」 と思う。声質が問題なのではない、喋る声の調子が感情を露呈するのだと思う。
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