anti-daily-life-20221115
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Happy are those who mourn; God will comfort them! (Matthew 5:4)

 



 小林秀雄氏は、「好色文学」 の中で次の文を綴っています。

     人間に一番興味ある 「物」 は、人間であろうし、一番
    激しい興味は、恋愛の情にあるだろう。恋歌は詩の基だ。
    「あはれ」 は殆どすべての種類の感情感動を指す語だが、
    悲哀傷心は、人の最も深い感情であろう。悲しみは、行為
    となって拡散せず、内に向って己れを噛むからである。

 「あはれ」 は、嘆賞・親愛・同情・悲哀などのしみじみとした感動を表す ことば ですが、それらの感情のなかでも、他人との関わりが極めて感得できるのが恋愛 (相聞、特に悲恋) でしょう。そして、もう一つは、懇意な人が亡くなったときでしょう。われわれが人生を しみじみと感じるときというのは、相聞 (悲恋) と辞世とに集約されるのではないか。悲哀 (失恋など) を味わった人が悲哀を噛みしめ、人の世の はかなさを感得したとき、「行為となって拡散せず、内に向って己れを噛む」ので、それ以前の その人の性質は確実に変貌を遂げるでしょうね──そういうふうに変貌した性質が 「人情の機微がわかる」 性質になるのではないか。その性質と逆であるのが 「がさつ」 ということでしょうね。

 「文学青年」 というのは、感受性が強くて、物事に感応しやすい。「がさつ」 な 「文学青年」 というものを私は想像できない。感受性が強くて物事に感応しやすい人は、恋愛を体験する以前にも、自然の風景 (山川・草木・海、季節の推移、そして季節の風が運ぶ匂い) に感性を育成されて、「あはれ」 を感得する──否、私は論点先取りをやらかしてしまっているようです、そういう人が成長するにつれて 「文学青年」 気質を帯びてくるのでしょうね。私の場合には、幼少期に育った村の風景が私の感性を養ってくれたのだと思う。そして、それの困った点は、(1つの例外を除いて) その風景のなかには人々がいないという点です。おそらく、幼少期だったので、世間というものを知らなかったことが その理由なのかもしれない。「1つの例外」 というのは、かつての 「反 文芸的断章」 のなかで綴っているので、割愛します。私の感情のなかで、他人が のっぴきならない関係として関わってきたのは、20歳代の 「熱く悲しい思い出」 となった出来事です──そして、この思い出は、その後 私の生活から消えたことがないのですが、極めて個人ごとなので、これ以上は公の場で述べるつもりはないです。思い出を慈愛するけれど、思い出を反芻しながら生活するような日々を送りたくもない。つねに これからの日々を 真っ直ぐに観て、新しい物事と出会いたい。

 トルストイ は、「アンナ・カレーニナ」 のなかで、次の文を綴っています──

     幸福な家庭はすべてお互いによく似かよっている。しかし
    不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。

 ヒルティ は、「幸福論」 のなかで、次のように述べています──

     人間の生活には不幸が必然的につきまとうものであり、
    それどころか、いくらか逆説を用いて言えば、不幸は幸福
    に属しているのである。

 トルストイ や ヒルティ の云うことを感知できるのが 「悲哀 (の機微)」 を分かるということではないか。近年、ポジティブ・シンキング を推奨する書物が流行っているようですが、朗らかであることは それはそれでいいのだけれど、年がら年中 朗らかでいることはできやしないし、悲哀を噛みしめることができて初めて朗らかでいることができるというのは逆説になるのかしら。微笑みの裡には 言い知れぬ悲哀が宿っているというのが文学の核になっているのではないか。

 
 (2022年11月15日)


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