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The Lord knows that the thoughts of the wise are worthless. (1 Corinthians 3:20) |
私は屢々思う事がある、もし科学だけがあって、科学的
数学 (数学基礎論、あるいは Logic) の世界では、項 (変数・関数・定数) を使って、ひとつの形式的 「構造」 をつくる清潔な論理だけが通用します。その清潔な世界では、或る対象範囲のなかで生起する 「運動の連鎖 (原因-結果の関係)」 が 「構造」 として構成されます。「構造」 は、次の 3つの関数から構成されます──
(1) モノ の性質 ( f (x):クラスともいう)
「構造」 というのは、関数すなわち順序と関係にほかならない。論理の記号化は、私のような数学の門外漢にとって、「厳密性」 の化け物みたいな恐ろしい怪物であって──数学者たち・哲学者たちは、それを 「極度に純粋で、きびしい完成能力」(ラッセル、『数学研究』)と言うでしょうが──、怖じ気をふるってしまいます。しかし、小林秀雄氏の言うように、「その確実な成果を利用している限り、理性はその分を守って健全であろう」。
「理性はその分を守って健全であろう」 というのは、構文論に限っての話です。そして、ここで厄介な問題が浮上してくる、その理性を発動する誘因は何か、という問題です。理性を行使するのがわれわれの人体であるので、理性に絡んでくる精神 (知・情・意) を外して Logic を語ることはできないでしょうね。つまり、思考は、われわれの総体としての一身のなかで起こる現象です。ゆえに、その人の人生観を抜きにできない、「もし科学だけがあって、科学的思想などという滑稽なものが一切消え失せたら、どんなにさばさばして愉快であろうか」。
私は、日本科学哲学会の会員です。そして、「幽霊」 会員です (苦笑)──学会から発刊されている論文集を ときたま読みますが、学会で発表したこともなければ、学会の活動に関与したこともないです。科学哲学とは、、、そういう大きな論点について、科学者でもないし哲学者でもない私が語り得る論点ではないし、「文学青年」 気質の強い私は どちらかと言えば、科学 (あるいは、数学) を 「文学」 的な観点から眺めているようです。「偶像崇拝」 という ことば は、現代では、ほぼ否定的に語られているのではないか。科学がもたらした合理的世界観が その厳密性を骨抜きにされて世俗に流布するにつれて、いわゆる 「知識人」 と云われている人たちが いっぱし 「合理的 (?)」 な思考をしていると思いあがって、中世的匂いが付着した 「偶像」 を蔑視するというような現象が定着したのではないか。しかし、小林秀雄氏は 「偶像崇拝」 を否定していない、彼は 「偶像崇拝」 のなかで次の文を綴っています──
言葉を扱う詩人は物的造形をしていないかの様に見えるが
この文の次に先に引用した 「私は屡々思う事がある」 の文が続いています。そして、その引用文の次に続くのが以下の文です──
これに準じて感情は、真面目に偶像崇拝を行って恥じる処は
私が いわゆる 「知識人」 の偶像破壊を うさん臭く思っている点を小林秀雄氏は見事に代弁してくれています。科学の合理的世界観を骨抜きにして 「精神」 の領域のなかに適用する似非科学を私は嫌悪しています。拙著近刊のなかでも引用しましたが、科学と芸術とのちがいを的確に示した次の ことば を私は私の思考・感情の判断規準 (ものごとを語るときの規準) にしています──
芸術は私である。科学はわれわれである。
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