anti-daily-life-20230115
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endurance brings God's approval, and his approval creats hope. (Romans 5:4)

 



 小林秀雄氏は、「偶像崇拝」 の中で次の文を綴っています。

     絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないか
    が問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見る
    とは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪え
    る練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽
    を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る
    練習だ。

 「偶像崇拝」 のなかで、上文のあとで、小林秀雄氏は次の文を認 (したた) めています──

     現代日本という文化国家は、文化を談じ乍ら、こういう
    寡黙な認識を全く侮蔑している。そしてそれに気附いて
    いない。(略) 肉眼と物体を失った ヴィジョン は、絵では
    ない、文化談である。

 小林秀雄氏のこの意見に私は共感します。そして、現代では、絵に限らず、何事につけても批評家雀が群がって、おのおのの 「理解」 (「解釈」) の饒舌な談話を披露している。観ることが軽視されて、それよりも 「本質 (?)」 を探ることが重視されている。ものごとを じっくり観なければ 「本質 (?)」 など掴めることができないのだけれど──ちなみに、私は 「本質」 などというものを 毛頭 信じていないのですが──、まるで疑問点/問題点を認識する前に すでに ソリューション が用意されていて、その ソリューション (一般法則) を おのおのが めいめいの 「解釈」 を通して しゃべっている、そして そういう態度が 「頭がいい」 とか 「教養がある」 というふうにみなされて もてはやされている。そういう態度を非難して、小林秀雄氏は次の文を綴ったのではないか──

    美しい花がある。「花」 の美しさという様なものはない。
    (「当麻」)

 いわゆる 「数学基礎論」 (Logic) は、数学的な 「真」 (正しさ) を保証する学問ですが、その 「数学基礎論」 では、論理式の演算という退屈に堪える労務が数学者の大方の時間を占めているそうです──私は 「数学基礎論」 をずいぶんと学習してきましたが数学者ではないので、論理式の演算が数学者の仕事の ほとんどを占めるという事実は数学者がそう言ったことを そのまま引用しました。ひとつの定理が生まれるには、論理規則に則った・高度に抽象化された 「論理式の演算」 という地味な・緻密な・退屈な──数学者自身は退屈とは 毛頭 感じていないで快楽と感じているかもしれないけれど──労務を通過しなければならない。数学は、構文論重視と言っていいでしょう。そうやって証明された定理を われわれは その成果 (意味論) だけを恩恵として使っている。そして、われわれは、高度に抽象化された定理を 「本質」 と思い込んで濫用してしまう。これが 「法則症候群」 と云われる疾患でしょう。

 私も若い頃には見事にこの疾病を患いました (苦笑)。自分が病気であると思っていないような病人は、病気を治そうとする気など更々 持ちあわせてはいない。幸い、文学・哲学が私を救ってくれました。大学生の頃、古本屋で たまたま 目にした ギットン 氏の著作 「読書・思索・文章」 を読んだときに、次の文が私の心の底深く刻み込まれました──

    方法から体系へ、道程から真理への微妙な変貌は、
    きわめて悪質な誘惑であると思う。

    思考には骨組みとなるような体系が必要であるが、
    しかし人間が存在の体系と等しくなることは、おそ
    らく不可能であって、真の救いは体系よりも方法を
    選ぶことであろう。

 これらの文は、その後の私に多大な影響を与えました。昨年 7月に出版した拙著のなかで、この文を引用しています──ギットン 氏の著作を読んだ大学生の頃から数えて 45年たった今でも、この文は私が思考するときの心得としています。そして、ウィトゲンシュタイン 氏は言いました、「考えるな、観よ」 と。

 
 (2023年 1月15日)


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