anti-daily-life-20230215
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although saddened, we are always glad;... (2 Corintheans 6:10)

 



 小林秀雄氏は、「感想」 の中で次の文を綴っています。

     悲劇とは単なる失敗でもなければ、過誤でもないのだ。
    それは人間の生きてゆく苦しみだ。悲劇は、私達があたか
    も進んで悲劇を欲するかの如く現れるからこそ悲劇なので
    ある。

 小林秀雄氏のこの言を私は共感します。悲劇と云うほどの不幸・悲惨な出来事を私は体験していない。ただ、小林秀雄氏が言うように 「私達があたかも進んで悲劇を欲するかの如く現れる」 という性質は、いわゆる 「破滅型」 (破滅を好む傾向) の 「文学青年」 には顕著なのではないかしら。私も その傾向が強い。事態が良い具合に上昇しているときに、私は寧ろ正反対の 「堕ちる」 ほうを選ぶ──その傾向は、物事を ネガティブ (否定的) に考えるというのではなくて、堕ちてゆくことに快感を覚えるという性質です。あるいは、困難な事態を わざと選ぶと云ってもいいかもしれない。困難に陥ったときに、その困難に負けそうな己れを鼓舞するために、「艱難は己れを鍛える」 などというふうな世間でよく云われている人生訓臭いことを私は言っているのではない──「世の中のものはなんでも我慢できる。しかし幸福な日の連続だけは我慢できない」 (ゲーテ)、そういうふうに感じるのが 「文学青年」 気質ではないか。生活しているだけでは足りぬと思って、社会のなかで足掻 (あが) いて、己れ (言い替えれば、己れの 「表現」) を模索しているというのが文学ではないか。そういう意識の強い ヤツ が世俗の成功を良しとする訳がない──こういう意識も世間の目からみれば悲劇と云えば悲劇でしょう。

 
 (2023年 2月15日)


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