anti-daily-life-20230415
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...and obedient heart, and they persist until they bear fruit. (Luke 8:15)

 



 小林秀雄氏は、「セザンヌ の自画像」 の中で次の文を綴っています。

     セザンヌ の眼に、自然はどんな具合に、どんなに頑強に
    抵抗したかを 「サント・ヴィクトアール 山」 は明らかに私に
    語りかけて来る。傍に幾つかの未完成の習作めいた水彩
    画が並んでいるが、其処に現れている驚くほどの正確さと
    速力とで動いている セザンヌ の同じ手が、山にさしかかる
    とまるで登山家の様に喘いでいる。これは、まるで眺めて
    いる人にはわからぬ、登山家だけが知る山の様である。
    彼の筆致は、まるで遅疑と忍耐とだけが、信ずるに足る
    手法だと言っている様だ。

 セザンヌ は私が好きな画家の一人です──モジリアニ、ミレー も好きです、セザンヌ と モジリアニ の画集を私は それぞれ所蔵し、ミレー の 「晩鐘」 の模造品を リビング・ルームの壁に飾っていますが、画集に収められている画像は本物 (オリジナル 品) に比べて小さすぎるのが残念です。セザンヌ と モジリアニ は、日本にて展覧会が開催されたとき、実物を観ました。セザンヌ の 「サント・ヴィクトアール 山」 を実物で観ました。セザンヌ の風景画を私は大好きです。 「サント・ヴィクトアール 山」 を観たときの印象については、かつて 「反 文芸的断章」 で綴っているので、その画を観たときと今も印象は変わっていない。私が セザンヌ の風景画に魅了されたのは、大学受験に落第して 「浪人」 になったときでした──その頃、私は フランス 文学を乱読していましたが、いっぽうで絵画・彫刻 (セザンヌ、モジリアニ、ユトリロ、ルノアール、ロダン) にも惹かれていて、書店で画集を買い漁っていました。70歳にならんとする今でも、それらの画家・彫刻家を大好きです、絵画・彫刻の私の嗜好は変わっていない。

 セザンヌ の 「サント・ヴィクトアール 山」 について、小林秀雄氏は 「彼の筆致は、まるで遅疑と忍耐とだけが、信ずるに足る手法だと言っている様だ」 と言っていますが、そう感じ取るまでの画法の知識を私は持ちあわせていない。私が セザンヌ に惹かれるのは、山を描いた淡い土色 (「サント・ヴィクトアール 山」) や、林を描いた緑 (「サント・ヴィクトワール 山と シャトー・ノワール」) が 陽の薄暗い淡い光のなかで あたかも実際の風景を目のあたりにしているかように絵画と私のあいだに存る空隙を消し去るからです (彼の作品のなかで、私は、「サント・ヴィクトワール 山と シャトー・ノワール」 を一番好きです)──セザンヌ の風景画のなかには人間が存在していたら台無しになってしまう、その絵のなかに居るのは その絵を観ている私であって、私は風景の全体の空気を全身を以て感じる。同じような感覚を ユトリロ が描く街路地の 「白い壁」 にも私は感じています。私が セザンヌ の風景画に惹かれる理由は、察するに 私が子どもの頃に体感した田舎の田園風景・連峰風景と類似の感覚を呼び起こすからかもしれない。私が子どもの頃を振り返って思い起こす風景には村の人々が出てこない。風景画とは そういうものだ [ 景色を主題にした絵画 ] と言われれば そうなんだけれど、風景画を観る人が風景の渦中にいるように感じる──風景のいちぶになる──感覚を喚起する作品は なかなか 出会うことがない。自然な形態を デフォルメ (déformer) した形相が自然の質量感を伝えるというのは、画家の筆致の極致でないか。

 
 (2023年 4月15日)


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