anti-daily-life-20230501
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Be on guard against the yeast of the Phariseess--I mean their hypocrisy. (Luke 12:1)

 



 小林秀雄氏は、「雑談」 の中で次の文を綴っています。

     思想の混乱ということがいわれているが、もっと恐ろしい
    ことは、視覚や聴覚の混乱である。美しさがわかる感覚の
    衰えたことである。思想の混乱もただ思想によって秩序
    づけようとする。安定させようとする。それは思想の上に
    思想を築く事で、いよいよ思想は混乱するだけだ。根本に
    ある視覚や聴覚の混乱に気付かなければ駄目な事です。

 小林秀雄氏の この文に私は賛同します。抽象論を扱う哲学書を 私の仕事柄 (モデル 作成技術を創造する仕事) それなりの数にわたって読んできて、生々しい思考・精神を感じる書もあれば、生気の抜けた干からびた すかすかな書物も存った。私が読んできた哲学書のなかで、生々しい思考・精神を感じた哲学書 (言い替えれば、それを書いた哲学者) は、ソクラテス、デカルト、ギットン、アラン、ヴァレリー、ウィトゲンシュタイン です。思考 (論理)/思想を追究する哲学において、彼らの書物には、小林秀雄氏の言う 「美しさがわかる感覚 (視覚や聴覚)」 を感じる。シオラン (哲学者) は、次のように言っています──

    ひとりの哲学者の遺すもの、それは彼の気質だ、、、。
    生きれば生きるほど彼はますますおのれ自身に立ち帰る
    ことになるだろう。

 そのことを私は如実に感じたのが、上述した哲学者たちでした──「この人を観よ」 としか言いようがない哲学者たちです。

 勿論、私は現代物も読んでいますが、正直言って、私は惹かれることが ほとんどない (皆無とは言わない)。惹かれない理由は、ただ 小難しい語を積みあげて、曖昧な観念 (心的形象) を曖昧なまま (あるいは、ムダ に詳細に、まるで蔓に絡まって身動きがとれないような様に) 論じて空転して干からびているからです、著者の生々しい視覚・聴覚に触れることが ほとんどない。ウィトゲンシュタイン の ことば を借用すれば、そういう人たちは 「蠅取り壺に落ちた蝿」 の状態です。そういう書物を読み始めれば、途中で私は欠伸を催 (もよお) す。たぶん、そういう人たちは真面目に自らの考えを書いているのでしょうが、真面目くさった冗談としか私には思えない。小林秀雄氏の言うように、「思想の混乱ということがいわれているが、もっと恐ろしいことは、視覚や聴覚の混乱である」。そういう混乱は、単純に言えば、己れの体感を軽視して、ことば (思想) の上に ことば (思想) を積みあげているだけでしょう。そして、ウィトゲンシュタイン は、次のようにも言っています──

    考えるな、観よ。

    哲学は、本来的に、ただ詩作としてのみ書かれるべきである。

 
 (2023年 5月 1日)


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