anti-daily-life-20230701
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but if we see what we hope for, then it is not rally hope. (Romans 8:24)

 



 小林秀雄氏は、「『白痴』 について」 の中で次の文を綴っています。

     理想や真理で自己防衛を行うのは、もう厭だ、自分は、
    裸で不安で生きて行く。そんな男の生きる理由とは、単
    に気絶する事が出来ずにいるという事だろう。よろしい、
    充分な理由だ。他人にはどんなに奇妙な言草と聞こえよう
    と自分は敢えて言う、自分は絶望の力を信じている、と。
    若し何かが生起するとすれば、何か新しい意味が生ずる
    とすれば、ただ其処からだ。

 絶望から這い上がった不屈な人の精神は強いだろうな、ということは私のような程度の凡人でも想像できる。私は、絶望と呼べるような奈落の底に落ちた (希望を全く失う) 体験をしたことがない、多くの人たちも そうではないか。われわれ凡人が 「絶望した」 と言うときには、「絶望した」 と言っても平気なほどの精神的余裕が充分にのこっている。その精神的余裕は、絶望を寧ろ回避する安全弁を事前に用意しているのでしょう──その安全弁として、かつて読んできた書物や他人から聞き及んだ ことば (偉人たちの名言・格言・箴言など) を 随時 借用しているのではないか。すなわち、絶望を直視する前に、絶望を回避しているのでしょう。言い替えれば、問題が起こる前に ソリューション が すでに提示されているという本末転倒な状態になっている、ちなみに 「賢者は歴史から学ぶ」 などという cliché (言い古されてきた陳腐な きまり文句) などは その典型でしょうね、その文句を恥じらいもなく ドヤ 顔で言い放っている人を観ると私は失笑してしまいます。

 ただし、私は、そういう安全弁を無意味だと言っているのではないので、念のため。われわれは、社会生活を営んでいるので、一人の社会人として人生を送っていくうえで、安定した (絶望を回避する) 生活を望むのは当然ではないか。絶望の底を見極めようと絶望に喰らえついて、其処に至って なにか新しい意味を探るなどという戦いは、芸術家 (天才) に特有の活動ではないか。そういう生活が常態であるというのは、芸術家でもない われわれ凡民には縁のないことでしょう。ここで厄介な問題が起こる、、、いわゆる 「文学青年」 というのは、絶望を装うのが巧みだということ。そして、「文学青年」 の成れの果ては、社会生活になじめず、そうかといって 絶望の底にまで至らないので なにか新しい意味を見出すこともできない半獣の輩でしょうね。「自分は、裸で不安で生きて行く」 (ありのままに生きていく)、とても難しいことだよ、、、。

 
 (2023年 7月 1日)


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