× 閉じる |
But Simon and his companions went out searching for him, and when they found him, they said, "Everyone is looking for you." (Mark 1:36-37) |
一体自分を語るのと他人を語るのと、どちらが難しい
「汝自身を知れ」 そして 「無知の知」 という格言は──近年には 「自分探し」 という心地よい迷言 (?) が 一時期 流行ったけれど──、己れを掴みかねている若い頃には魅惑の ことば として響くようですね。「汝自身を知れ」 という格言は、アポロン 神殿の入口に刻まれていて、この ことば を深読みしないで普通に (素直に) 考えれば、「神殿の入口までは人間界だが、この入口の先は神域だ、オマエ は神ではない、それを心得て入れ」 ということではないか。短い格言というのは、種々様々な 「解釈」 を さそいおこす。そして、ソフィスト (知者) と云われる人たちが、「万物の根源」 を探究していて、「万物の根源は水である」 (タレス) とか 「万物の根源は火である」 (ヘラクレイトス) とか論じられていた古代 ギリシア 時代に、一番の賢者は ソクラテス であるという神託があったけれど、それを確かめるべく ソクラテス は ソフィスト と呼ばれている人たちと対話してみて、ソフィスト と云われている人たちが何も知らないのに知っていると錯覚していることを彼は気づいて、かの有名になった──哲学のはじまりとなった──ことば 「無知の知」 (自分は ソフィスト ではない、自分は何も知らない、それを自覚している) と胸中を吐露したのです──この経緯 (いきさつ) は、「ソクラテスの弁明」 に記されています (「ソクラテスの弁明」 は、私の愛読書の一つです)。だから、「汝自身を知れ」 と 「無知の知」 は ほぼ同じことを述べていると私は思っています。ちなみに、「パイドン」 を読んでいて、ソクラテス が毒を呷 (あお) る場面の描写が生々しくて──プラトン の筆致が スゲー としか言いようがない──読み進むにつれて私の心臓は激しく動悸を打っていました。
「いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志の結果」 であるとするならば、「決して追い付けないもう一人の人間を追う様に見える」 というのは当然の帰結でしょう。一つの仕事を続けていれば、多くの体験を通じて知識が豊富になって実績も数々積んできて、老年期には authority などと云われる人たちもいるでしょう。それはそれで正当な称賛なのですが、うっかりすると後から続く人たちを未熟な若輩とみなして、自らの体験談を えらそうに披露したくなる。私も そういう罠に陥りそうなこともある──そういう罠を避けるには、人前に出ないに越したことはない。私は、そもそも 俗人も嫌い そして聖人も嫌いという我がままな人間嫌いなので、できるだけ人前に出ない。人前に出て、褒められたら、私は いい気になる。それよりも寧ろ、「明日の私」 の可能性を信じて、決して追いつけない もう一人の己れを追う様にしていたい。東洋の賢者も言ったではないか──「学びて然る後に足らざるを知り、教へて然る後に究めざるを知る」 (孔子、『集語』)。
|
× 閉じる |