anti-daily-life-20230901
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God resists the proud, but gives grace to the humble. (James 4:6)

 



 小林秀雄氏は、「ゴッホ の手紙」 の中で次の文を綴っています。

     先ず何を置いても、全く謙遜に、無私に驚嘆する事。そう
    いう身の処し方が、ゴッホ の様な絶えず成長を止 (や) め
    ぬ強い個性には、結局己れを失わぬ最上の道だったので
    ある。

 「全く謙遜に、無私に驚嘆する事」──「謙遜」 になるということは私にも分かるけれど、「無私」 という状態を私は実感として まったく感知できていない。私は大学生の頃、「無私」 と ことば を なんとなく わかったつもりでいたけれど、今振り返ってみても、「無私」 を感知していた訳でもないし体得していた訳でもない。「無私」 という ことば を、小林秀雄氏や亀井勝一郎氏の著作から引用することはあっても、自分の語彙──自分が 普段 使う語彙──として所持してはいなかった。おそらく、私が 30歳頃から今に至るまで自発的に この ことば を使ったことは皆無だと思う。その理由は、この ことば を使うには実感がともなわないのだからでしょうね。小林秀雄氏や亀井勝一郎氏のように、自らの生涯を通して己れの精神と向きあい、いかに生きるべきかを考え抜いた文学者 (あるいは、芸術家、哲学者や宗教家) であれば、「無私」 という状態は自らの仕事上ぬきさしならぬ内情なのでしょうが、私のような程度の庶民は 我欲にまみれた社会生活のなかで 彼らとは対極に立っているので、「無私」 は (私が到達できない) 一つの憧れではないか。

 だからと言って、芸術家・哲学者や宗教家が語る 「無私」 を、我々の社会生活から乖離した単なる空疎な観念だというふうに私は思わない。なぜなら、それを実践している彼らが実際に存在しているのだから。「世界から退避するには、芸術によるのがいちばん確実だが、世界と結びつくのにも、芸術によるがいちばん確実である」 (ゲーテ、「親和力」)──私は、老いて この ことば を噛み締めています。若い頃には、世界から退避するために芸術に溺れる傾向が強いけれど──芸術に浸って社会を俗として見下す傾向が強いけれど──、社会のなかで体験を積んで やがて老いて自ら人生を振り返ったときに、世界と結びつくには芸術がいちばん確実であるということに思い至る、というのは 「芸術の目的は、生活がその断片的素描しか与えなかったものを実現することである」 (クローデル) のだから。

 絶えず成長を止めないで生活 (あるいは、仕事) を続けることは、ゴッホ のような天才を俟 (ま) つまでもなく、私のような凡人でも難しいことではない。一つの仕事を 30年・40年と続けていれば、その道中で実現してきた成果は一つの塚であって、更なる道程のなかでは その結果は行きずりの過程にすぎない。道の前方に存るのは、果てしない無尽蔵な (一人の力では到達できない) 可能態です。それを感じたとき、自 (おの) ずから謙虚になるでしょう──自分は学徒の一人にすぎない、と。この実感なら私にもある。しかし、これが凡人 (我欲) の限界なのでしょうね、、、天才は そのとき 己れを失わぬ最上の道として 「無私」 の境地にある、己れ (「私」) を失わぬために 「無私」 の境地にあるというのは私には皆目わからない逆説です、、、。

 ピカソ が言った意味深な ことば──

    個性は、個性的になろうとする意志から生まれるものでは
    ない。独創的になろうと熱中しているひとは、時間を浪費
    しているし間違っている。そのひとに何かがやれたとして
    も、じぶんの好きなものを模倣したにとどまる。やればやる
    ほど、じぶん自身とは似ても似つかぬものを生むに終わる
    のだ。(サバルテス、「親友 ピカソ」)

 この心持ちが天才の天才たる所以なのでしょうね。私のような程度の凡人は、どうしても、個性的であろう、独創的になろう、という意欲が強い、、、。

 
 (2023年 9月 1日)


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