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Speak and act as people who will be judged by the law that sets us free. (James 2:12) |
百五十年も前に、ナポレオン 法典は、各人の思想発表の自由
この引用文は、たぶん 小林秀雄氏が 1954年 (昭和29年) 4月か、あるいは 1959年 (昭和34年) 6月に綴った エッセー だと推測しますが、私は それらの エッセー を読んだことがない。私が読んだのは、1964年 (昭和39年) 10月に発表された彼の エッセー 「常識について」 です──「常識について」 を読めば、彼が 「常識」 ということを どのように考えているかがわかる。ここ (本 エッセー) では、彼の 「常識」 についての意見にこだわらないで、次の 2点について考えてみます──
(1) めいめいが好き勝手な事を主張する自由を認めること。
(2) 皆が協力して秩序ある社会を作ること。
これらの 2点を両立 [ 並立 ] することが 「困難極まる理想」 であると彼は述べているのですが、そもそも 我々には 皆 個性があって 互いに異なっているのは当然なので、これらの 2点を両立させる役割として 我々は 「妥協」 (歩み寄り、折りあい) するのではないか。社会生活を営んでいるかぎりでは、「妥協」 を一切しないというのは ムリ でしょう──互いに 「妥協」 しないのであれば、その結末は喧嘩になるか、あるいは 互いに無視するしかないでしょうね。生活上あるいは仕事上 どうしても 「妥協」 できないということは起こりうるでしょう、そのときには他人から非難されたり無視されることを覚悟のうえで 己れの信じることを敢えて実践することになる。生活や仕事では、そういう事態というのは そうそう 起こることはないでしょうね。私にも、生活上および仕事上で 「妥協」 できないことは あるけれど、その数は極めて少ない。そして、「妥協」 できないこと以外については、私は どうでもいい と思っていて無関心です。そして、この態度が 精神衛生上 とても快適です。互いの 「プライバシー を侵さない距離 (隔たり)」 を守るというのは自由であることの第一要件ではないか。己れの観点を持っていて、そこから物事を観るとか 他人から見られたいというのは自由とか多様性の大前提でしょう。
ただ、相手よりも自分のほうを重んじるというのは人性でしょう──そうではなくて 「先渡他」 という高徳な人もいますが希少でしょうね。自らの生活を充実させることを希 (ねが) うのは、それはそれでいいのですが、とかく 自らの信念や好みを相手に強いがち (あるいは、感じさせがち) である人たちが多いようですね、そういう人たちが相手との つきあい をかき乱して壊すのでしょう。己れの信念や好みを尊重するのであれば、相手のそれらも尊重するということが justice ということでしょう。私は、justice という意味を equality と同義だと思っています。
「論理」 に関して議論することはできるけれど、「信念」 については もう議論することはできないでしょうね。「論理」 に関しては、「前提」 と 「推論」 を基にして、それらを使って構成された モデル が現実的事態を どれほど正確に記述できているか (あるいは、その モデル から将来を どの程度の推測できるか) ということが論点になって、議論では、「前提」 「推論」 の妥当性が検証されるので、同じ土俵に立って議論ができる (論点を共有 [ share ] できる)。しかし、「信念」 ともなれば、「論理」 の前段階での思想であって、信じるか信じないかの決意の問題でしょう──「信念」 が具体的な形 (制度や技術など) になれば、議論の対象にはなるけれど、その議論のなかに 「信念」 を持ち込んで 「信念」 を語られても議論にはならない。
己れの意見を述べることは自由ですが、その意見が具体的な形 (制度や技術など) となって社会が構成され変革されてきたのあって、過去の形を継承拡張して あるいはその一部を相克否定しながら それぞれの社会 (国家など) は それぞれの文化を育み形成されてきたではないか──それぞれの社会は、その構成人・構成物の多様性を包含しつつ できるだけ多数の人たちの幸福を実現すべく 「現実解」 を探りながら、ときには 間違いを犯しながらも、凸凹 (でこぼこ) して継承されてきたではないか。「皆が協力して秩序ある社会」 というのは、一つの理想 [ 決して実現されない社会 ] かもしれないけれど、その 「現実解」 として自由主義・資本主義 (すなわち、現行の社会制度) について 私は 不満を いくつか持ってはいますが とりあえず 信を置いています。
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