小林秀雄氏は、「モオツァルトの音楽」 の中で次の文を綴っています。
彼 (モオツァルト) の音楽は、およそ音楽鑑賞上の試金石の
如きものである。現代の音楽好きは、音楽にはいろいろな聞き方
があるという考えに捕われ過ぎているように思われる。音を言葉で
翻訳することにあまり忙しいのである。音楽の暗示するさまざま
な空想にとらわれず、鳴っている音を絶対的な正確さで、耳で
捕えるという音楽鑑賞の基本がぐらついているのである。
私は クラシック音楽を大好きで まいにち 聴いていますが、スコア (総譜) を読めないし、ピアノ や ヴァイオリン を弾けない、ただただ クラシック音楽を好きな好事家にすぎない、小林秀雄氏の言う 「鳴っている音を絶対的な正確さで、耳で捕えるという音楽鑑賞の基本がぐらついているのである」。そんな シロート の私でも クラシック音楽の作品を グレゴリア聖歌、バロック 音楽からはじまって 「歴史順」 に聴いていると、クラシック音楽の変遷が感知できる。
小林秀雄氏は、モオツァルトの音楽は 「音楽鑑賞上の試金石の如きものである」 と言っていますが──それについては、私も同意するのですが──、「鳴っている音を絶対的な正確さで、耳で捕えるという音楽鑑賞の基本」 を試すのであれば、バッハ、ヘンデル、ハイドン らの作品が的確ではないか (モオツァルト の ピアノ・コンチェルト も そうだと思う)。ハイドン は 「交響曲の父」 と云われていますが、彼の初期・中期の交響曲は、私は聴いていて ディヴェルティメント や合奏協奏曲と区分することが難しい、「音に載る (音に ぴったりついて離れない、音の働きかけに応ずる)」 しかない。ハイドンの後期作品や モオツァルト の作品は、「構成」 のなかに色濃く 「情緒」 を揺する、すなわち 「音楽の暗示するさまざまな空想」 を想起する音が多くなってくる。そして、ベートーヴェン に至って、交響曲は その音楽のなかに思想・哲学が盛り込まれて、交響曲の到達点を打った (ただし、交響曲の構成形式として 「三楽章か四楽章か」 問題は悩ましい問題として後世にも引き継がれることになったけれど)。ベートーヴェン 以後の作曲家は ベートーヴェン の影に悩まされることになった。交響曲を 「歴史順」 に聴いていると、交響曲が どのように変貌してきたのかが わかるでしょう──専門家であれば、その変遷を技術的な観点から説明できるのでしょうが、私のような程度の シロート は その 「形式」 に載って運ばれる 「情緒」 を感知することしかできない。だから、モオツァルト の作品 (ただし、ピアノ・コンチェルト を除く) や ベートーヴェン の作品を聴けば、どうしても 音楽のなかに 「情緒」 を探って、音を言葉で翻訳することに忙しくなるのではないか。
音楽は、音楽記号を使って記述されています。ふだんの生活では、我々は自然言語を使って コミュニケーション を図っているのですが、自然言語の語彙は膨大であるにもかかわらず、我々は自らの思いを過不足なく表現できているとは 毛頭 感じてはいないでしょう、自らの思いが伝わらない もどかしさを 多々 感じているでしょう。自然言語に比べて その語彙 (符丁) が少ない音楽では、作曲家は自らの頭のなかに浮かんだ音を果たして それらの記号のみで完全に表現できるのか、そして 「譜面どおりに演奏する」 というふうに云われているけれど、それらの音楽記号を読んで演奏する人のほうでは それらの音楽記号が表現する音楽について 「解釈」 せざるをえない、フルトヴェングラー は次のように言っています──
全体を砕いて溶解し、またそれによって、私たちの音楽の
場合を形象的に言えば、始源的な心的状況を再創造する、
言わば創造に先行する混沌を再建し、その中からはじめて
全体を新たに造形し直す、ただそれだけが作品を本源の
形体において再現し、真に新しく創作することを可能に
するでしょう。
自然言語であれ音楽であれ、「魂が魂に話かける」 には、フルトヴェングラー の言うような仕方しかないのではないか。このような仕方は、勿論、誰にでもできるという訳ではなし──それができるからこそ、「一流」 と云われる訳だし──、高度な技術を前提にしているのは当然でしょう。たいした技術もないのに、天才の形態を真似しても御里が知れる。
(2023年12月 1日)