2005年 7月16日 |
基準編-8 勘違いされた ER概念 |
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2010年 6月16日 補遺 |
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ER手法も、いまでは、様々な流派があるが、それらの原点は、チェン 氏 (Chen, P.) が提示した ER手法である。チェン 氏の論文を読めば、ER手法は、「意味論 (semantics)」 であって、「構文論 (syntax)」 を前提にした コッド 関係 モデル に先行することを述べている。したがって、「チェン ER手法 → コッド 関係 モデル」 は成立しても、「コッド 関係 モデル → チェン ER手法」 は成立しない。 しかし、正統な (正当な) 「モデル (modeling)」 の観点を離れて、diagramming として、正規形と ER図という観点に立てば、正規形を ER図で描くことはできる。もっとも、そういう やりかた は、単なる diagramming であって、モデル として、妥当な接続にはならないが。 当時、T字形 ER手法は、コッド 関係 モデル に対して、アンチ・テーセ゛として提示され、「null の除去」 と 「関係の対称性・非対称性」 を考慮したが、いまだ、構文論としての性質が強かった。というよりも、T字形 ER手法を、当時は、いまだ、構文論として考えていた、といったほうが正確である。以下の文が、その考えかたを示している。 正当な
ER手法は、データ
を正規化する。 そして、いまから読み返せば、ここで訴えている点は、関係主義を離れて、実体主義を──個体 (entity) の 「認知」 を先に考える、という意味であるが──前提にするようにも読み取れる。 □
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[ 補遺 ] (2010年 6月16日) 今振り返ってみれば、「黒本」 の本編 (基準編-9) が、当初から今に至るまで、TM (T字形 ER手法の改良版) の論点において中核にあったように思います。こう謂ってもいいかもしれない──関係主義と実体主義とを いかにして調整するか、と。 「モデル」 の規則が、「数学基礎論」 の モデル 理論を規範にしているかぎりにおいて、「モデル」 は関係主義の接近法を採用するのは当然の やりかた です──そして、TM も、その やりかた を導入しています。 ただ、いっぽうで、実体主義の接近法を私は強 (あなが) ち却下することができない。というのは、「しかじかの性質があつまって、かくかくの物を構成している」 という 「個体の認知」 が、現実的事態──たとえば、事業過程──を対象にしたときに 「常識」 であるとは思えないので。実際の事業では、「かくかくの物」 を認知してから、その性質を 「解析する」 のが普通の行為でしょう。しかし、「個体」 を 「定義する」 のは極めて難しい。私の その迷いを吐露した文が 「論理 データベース 論考」 の 「あとがき」 に綴られています。そして、私は、その 「あとがき」 を綴ったあとで、「意味論」 を検討して、「赤本 (データベース設計論)」 を執筆しました。 「赤本」 が以前の拙著 (「黒本」 と 「論考」) に較べて新たな視点を導入した点は、「事実的な F-真と導出的な L-真」 という点でした。関係主義の接近法に従えば、個体は あくまで変項であって、「計算可能性」 として 「φ (x1,・・・, xn) の値 y が一義的に定まる しかた に関しては一切言及しないで、値が一義的に定まるような アルゴリズム がある」 という定義法を使うことになります。勿論、「計算可能性」 は、ゲーデル 氏の 「不完全性定理」 が導火線になりましたが、いっぽうで、「完全性定理」 において、「意味論的な恒真性 ←→ 証明可能性 (計算可能性)」 という命題──言い換えれば、「モデル の存在性」──が TM にとって争点になることも 「論考」 を執筆した時点で私は意識していました。すなわち、TM において、「意味論的な恒真性」 というのは、いったい、どういう状態のことなのか、という点が争点になる、ということ。この 「意味論的な恒真性」 と実体主義的な 「認知」 が ぶつかるのです。 関係主義と実体主義を調整するために、TM の体系として私が導入したのは以下の体系でした。 「合意」 された認知 → 導出的な L-真 → 事実的な F-真 この体系についての説明は、本
ホームページ のあちこちで綴っているので、ここでは割愛します。 |
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