2019年 5月15日 「3.2 述語と性質」 を読む >> 目次に もどる


 本節は 2ページにも満たない短い記述です。ちなみに、本節は 「4.3.4 性質、クラス および セット」 の前説として記述しました。

 命題論理では、単文の S-P (ひとつの主語とひとつの述語から構成される命題) を単位にして論理構成を分析します。いっぽう、述語を前提にして論理構造を分析するのが述語論理です。S-P 形式は P (s) という関数と同値 [ 論理的に同じ ] です──だから、述語論理は関数論理とも云われています。P (s) は数学的には f (x) と同値です。そして、f (x) は集合論 (あるいは、クラス 論理) に翻訳できます。

 述語 p を 関数 f とみなして集合論に翻訳する際、f を 「性質」 として考えるかどうか、、、論理学・数学では厳正に言えば、「述語」 と 「性質」 は違います。それが いわゆる 「ラッセル の パラドックス」(集合論の パラドックス) です。ラッセル 氏は、その ソリューション として 「タイプ 理論」 を提示しました。「ラッセル の パラドックス」 について簡単に説明します──

 f (p) の形式を考えてみます──この形式は、述語 f は性質 p をもつという意味です。例えば、f を 「2項関係である」 として p を 「対称性という性質」 とすれば、f (p) は 「2項関係には対称性がある」 ということを意味します。では、f (f) は成立するか。次の例を考えてましょう [ 文中 a は定数とします ]──

 (1) f (a) : 佐藤敦は小学生である。
 (2) g (a) : 佐藤敦は生徒である。
 (3)φ (f) : 小学生は生徒である。

 では、φ (g) すなわち 「生徒であるは生徒である性質をもつ」 は、意味があるか──自己言及になって、無意味です。この意味論的な例が 「『クレタ 人は ウソ つきだ』 と クレタ 人が言った」。この パラドックス の詳細は、拙著 「論理 データベース 論考」 pp. 86-87 を参照されたい。これを避けるために、ラッセル 氏は 「タイプ 理論」 を提示しました。

 数学者は、「述語」 だの 「性質」 だのというのは嫌っているようです──数学者は、f (x) のことを クラス と言っています。クラス とは外延が同じもの の性質は問わない [ 区別しない ] ということ、つまり 数学者とっては クラス は宜しいが 「性質」 は お断りなのです。

 拙著 「いざない」 では、とりあえず本節において、f (x) を 「性質」 と記述していますが、「4.3.4 性質、クラス および セット」 において 「性質」 を再考しています──結論を先に言えば、(論理学・哲学・数学では、述語・性質・セット (集合)・クラスは違うのですが、) 実務的には ほぼ同じと考えていいでしょう (その理由は、「4.3.4 性質、クラス および セット」 で詳細しています)。ちなみに、私は セット を前提にしています。したがって、f (x) は 「性質 (あるいは、クラス)」 を示し、f (x, y) は 「関係」 を示していると思っていいでしょう。なお、f のことを私は (「性質」 とは言わないで) 「条件」 と言うことが多い。そして、f という 「条件」 で集められた モノ [ つまり、f (x) ] が セット (集合) となります。 □

 




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