2001年 8月15日 作成 先達は 「あらまほし」 >> 目次 (テーマごと)
2006年10月16日 補遺  



 TH さん、きょうは、自らの思考の手本とする人物の探しかたについてお話しましょう。
 「徒然草 」 (吉田兼好) のなかに、以下の文章が綴れています。
 「少しのことにも先達 (せんだつ) はあらまほしきことなり。」 ( 第52段)

 学習を進めていて、「我流」 に陥らないようにするためには、その道の先達を手本にすることが大切でしょうね。
 まずは、「通論 (通説)」 の入門書を読むことからはじめるのがよいでしょう。「通論」 の書物を読むときには、(いきなり、ノート を作成しないで、) 数冊を読破して、全体の体系や考えかたを、おおよそに掴んで、「通論」 の書物のなかから、一冊を選び、ノー ト を作成すればよいでしょう。
 最初は、とにかく、多くの書物 (「通論」の書物) を乱読することです。そして、次に、「時代の流れ」 を形成した原点となっ た人物を探ればよい。多くの参考文献のなかで、多く引用されている人物が、ほぼ、そういう人物です。

 専門領域では 、そういう探しかたをすれば、良いのですが、(研究を目的としていない) 趣味の領域では、そういう人物が、読む人の 「好みにあう (あるいは、肌にあう)」 かどうか、という点は微妙でしょうね。「好みにあう」 人物と邂逅できるかどうか、という点は、 (多読のなかで捜すしかないので、) 「賭け」 でしょうね。その道の専門家のあいだで高い評価を得ている人物であっても、読む人の 「好みにあう」 かどうかは べつの論点ですから。

 幸いにも、「好みにあう」 人物と邂逅できたならば、 その人の体温を感じることができるまで、徹底的に読み込んで、(できれば、その人物の 「全集」 を購入して) その人の肖像を再現すればよい。
 いったん、原典と対峙したら 、自らの眼で凝視すればよい。そして、10年なり 20年なり、じっくりと 「つきあう」 ことが大切でしょうね。書物といえども、生身 の友人との 「つきあい」 と同じ 「つきあい」 になる。人の心から生まれた思いを、もう一度、その人の心のなかに返せばよい。それが 「対話」 ということです。ギットン 氏は、以下のように、書物との 「つきあい」 を記述しています。
「自分自身が感じていることを、はっきり自覚するようになるには、先生が感じたことを自分自身のうちに再現してみるのが、一 番いい方法である。この深い努力によって、われわれは、その先生の思想を明らかにすると同時に、自分自身の思想をも明らかに することができる。」
(ギットン 著、安井源治 訳、「読書・思索・文章」、中央出版社)

 本棚に置かれている本を観れば、ほぼ、その人の思考回路を想像することができるで しょうね。
 くれぐれも、「通論」 の書物ばかりが並んだ 「空虚な」 本棚にならないようにして下さい。そして、「通論」 の書物を、数冊、読んで、その領域の考え方を 「わかった」 つもりにならないで下さい。「通論」 の書物を、通冊、読んだくらいで、「鋭い (頭が良い)」 と思われたいがために、「気の利いた箴言ふうな」 ことを放言したり、他人の言うことに対して難癖をつけてばかりいる人は愚かです。ある程度の分析力と 推理力をもった人なら、(我流ながらも) 賛否両論をつくるのはたやすいことです。

 でも、批評とは、相手を褒めることです 。そして、善い点は習えばいいでしょう。よほどの天才を除いて、そんなに才能の善し悪しはない。とすれば、努力しかない。時間があれば、常に、机に向かわなければならない。時間が形成する蓄積は、それが日々僅かであっても、堆石を形成します。戒めるべきは、一事の熟練が万事の理と驕ることにある。スペシャリスト という ことば がもてはやされ、「特技をもて」 と言われていますが、一生の仕事なら 「これができる」 と言い切れたほうが幸福に違いないでしょうが、同時に、「これしかできない」 と思うことも大切ではないでしょうか。それが謙虚ということだと思います。

 アインシュタイン の ことば を引用して、きょうの話を終わりにしましょう。
 「何があるべきであり、何があるべきでないか、ということに対する感覚は、樹のように成長し死んでゆくもので、どのような肥料を施してもこれを変えることはできない。個人にできることは、せいぜい清潔な規範を示し、シニック な人の多い社会において倫理的信念をまじめに主張する勇気をもつことくらいだ。ぼくは、ずっと昔から、自分の生活をそんな風に送りたいと努力し、少しずつ成功してきたと思う。」
 (ゼーリッヒ 著、広重 徹 訳、「アインシュタイン の生涯」、東京図書)□

 



[ 補遺 ] (2006年10月16日)

 私は、「通論」 を重んじています。「通論」 という言いかたには、以下の 3つの意味が同時にふくまれています。

  (1) outline (たとえば、an outline of Logic とか)
  (2) introduction (たとえば、an introduction to Logic とか)
  (3) consensus (たとえば、a consensus of expert opinion とか)

 したがって、学問では、「通論」 は、研究を進める前に、まず、学習していなければならない基礎知識 (前提知識) でしょうね。「通論」 を覆す新たな視点・思想を生むのは天才の所為であって、われわれ凡人はできない。そういう天才は、専門家たちのなかでも、数十年あるいは百年に一人くらい出るかどうかという低い確率でしょう。したがって、そういう天才を除けば、専門家たちが地道に研究を進めて、専門家たちが研究した実りが 「通論」 の枠組み・中身を次第に修正増補します。専門家たちのあいだで、長いあいだ継承されてきた学問の枠組みを、われわれ シロート が覆すことなどできやしない。
 私が 「通論」 を重んじる理由は、学習を進める際に、(「我流」 を捨て、) 「通論」 を起点にすれば効果的・効率的だからです。

 「通論」 の書物は、1つの専門領域の全体像を限られた ページ 数のなかで記すのだから、どうしても、学術的に正確な知識を詳細に述べることはできない。「通論」 の書物は、専門的な 「ものの見かた」 を記した書物だと思ったほうがいいでしょう。したがって、「通論」 の書物を、多数、読んだとしても、専門知識を確実に習得したことにはならないでしょうね。
 「通論」 の書物を読むというのは、学習を進める前に、まず、「専門領域の全体像と 『ものの見かた』 を知る」 ことだと思えばいいでしょう。しかも、「通論」 といえども、執筆するひとの視点 (どのような知識を選んで、逆に、どのような知識を外すか とか、全体像を どのように整えるか など) が入るので、1冊のみ読めば良いという訳ではない。「通論」 の書物は、数冊を読んだほうが良いでしょう。

 「通論」 の書物を、数冊、読んで、全体像を把握したら、いよいよ、専門書を読み始めます。この時点では、或る程度、みずからの研究対象を具体的に感知していなければ、研究を進めるのが むずかしいでしょうね。研究対象を、いったん、感知したら、読まなければならない文献を リスト することもできます。ただ、専門的な文献を読んでいるうちに、研究対象が専門家たちのあいだで どのくらい検討されているか を知ることができるので、みずからの研究対象の範囲が修正 (変更・増補・詳細な限定など) されるかもしれない。そういうふうにして、地道に研究を進める以外に、研究のやりかたはないでしょう。そういうふうにして、いままで研究されてきた最前線まで辿り着き、未解決の問題点 (論点) を まとめて、さらなる一歩を進める準備をします。

 シロート が専門家に及ばないというのは、一人の シロート と一人の専門家を対比しているのではなくて、一人の専門家の背後には、人類歴史のなかで膨大な数の専門家たちが検討して継承されてきた知識の系統樹があるからです。

 学術領域では、上述した やりかた で研究を地道に進めれば良いのですが、文芸の領域では、上述した やりかた が、かならずしも、役立たないでしょうね。文芸の領域でも、「思想史」 が成立するのでしょうが、どちらかといえば、芸術家の感性・気質が作品の土壌になっているので、その芸術家の感性・気質に感応しなければ、作品が いかに すばらしい芸術品であっても、なかなか、賛嘆できないでしょう。

 私は、芸術論の書物も読んでいますが、芸術作品に関しては、個々の作品を鑑賞するよりも、一人の芸術家--その芸術家の秀作も駄作もいっしょにふくめて--と徹底的に 「つきあう」 ほうを好んでいます。
 ノルウェーの小屋で ウィトゲンシュタイン と語り合っているとか、永平寺で道元禅師の提唱を拝しているとか、モンパルナス の カフェ で コーヒー を飲みながら モジリアニ と会談しているというふうに、かれらの 「生々しい」 息づかいが感じられるほど、かれらの 「全集」 を読み込んで、「対話」するのが好きです--かれらは天才なので、凡人の私には 「対話」 するほどの知力がないので、かれらの話を聴き入るしかないというのが実態ですが。




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  佐藤正美の問わず語り